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【暑い日】

 頭が熱い。しかも痛い。
 真夏の太陽が頭皮をじりじりと焼いていく。日焼けで皮がむけると厄介だ。光流は頭にハンドタオルを掛けてみた。今更かもしれないと思いながら。
 小さな個人商店で買った、プラスチックの容器に入ったアイスは半ばまでなくなっていた。溶けた甘く冷たい液体を小さな吸い口から音をたてて吸い込んでいると、隣を歩いている忍が嫌な顔をした。
「みっともない」
「こーいう食いもんなんだよ」
「そんなもの買うな」
「暑いんだよ」
 長野が涼しいなんて嘘だ。
 頭上にイヤミなほど輝く太陽はちっとも傾く気配がない。風はそよりとも吹かず、耳には鼓膜を破壊されそうな勢いのセミの声。
「夏だからな」
 そんなことを嘯きながら、忍の横顔は熱を感じさせない。普段どおりの冷たい表情に、汗の跡はなかった。
 二人並んで歩き始めてもう随分たつ。光流は大汗をかき、口に氷菓を咥え、頭には白いタオルを乗せて全身で夏を表現しているが、忍は涼しい顔で真っ直ぐ前を向き、ひたすら目的地に向かっている。
 ふと、忍の体温を確かめたくなった。
 半袖から伸びる日焼けのしていない二の腕を、何の予告もなく握ってみた。
「暑い」
「いてっ!」
 即、束縛を受けていない側の手で叩かれる。
 光流はすぐに忍の腕を解放した。
 きちんと太陽の熱は忍の体にも変化を及ぼしていた。光流が知っている普段の忍よりはるかに高い体温と、つかんだ手の平が滑るほどの汗が、忍の体を覆っている。
(そりゃそうだ。忍だって人間なんだから)
 忍の汗で湿った手の平をそのまま握り込む。
 光流はこれから忍の身に起こるであろうことを思った。
 二人が、というより忍が向かっているのは、忍の実家である。
 今、そこには忍の家族が一堂に揃っているはずだ。忍がそのように手配した。
 光流の本心を言えば、忍の実家である手塚家には近寄りがたいものがある。
 ただでさえ古い格式を持つその家は、下町育ちの光流には敷居が高い。
 しかも、今日は…。
「どこまで付いてくる気だ?」
 光流の不安にまるで気付いかないというように、忍はそっけなく言った。
「どこまでって…」
 そして、そう言われてしまうと光流は返答に困るのだ。
 実家には忍一人で行きたいと、あらかじめ念を押されていた。そうはっきりと希望を言われてしまえば従うよりない。
 しかし、できれば今日は一緒に付いていきたかった。
「お前さ、本当に…一人で行く気なのか?」
 言い澱む光流を不信に思ってか、忍が立ち止まって目を向けてくる。
「何だよ?」
 忍は薄く笑った。
「ただ、実家に行くだけだぜ?捕って喰われるわけじゃない」
「そんなこと言ってるわけじゃねえよ!俺はただ…」
 忍は勢い込む光流を軽くいなして腕を上げた。指差す先に、小さな公園があった。
「あそこで待ってろよ。一時間はかからないと思う」
「俺も行きたい」
「だめだ」
 忍はにべもない。
 自分の手の届かないところで、忍が重大な一歩を踏み出そうとしている。しかも踏み出した先には、何があるのか予想もつかない。
 苛立ちに光流は声を荒げた。
「俺にも関係があることだろ!?」
「でも役には立たない」
 光流が言葉を失うと、忍は追い討ちをかけるように冷たい視線を向けてきた。
「光流、お前と家族の問題に、俺は何の役にも立たないだろう。俺の場合も、そうなんだ」
 そして忍は光流の体を公園のほうに押しやった。
「待ってろ。いいな」
 そして光流を置いて、歩き出す。その背は光流の助けを拒絶している。
 光流にもわかってはいた。自分自身で解決しなければならないことがこの世には腐るほどある。
 たとえ忍が、堅牢な外面の中に意外な脆さを持っていたとしても。
 それでもなお、一人で行くというのなら、光流にできることはせいぜい公園のベンチで安いアイスを片付けることぐらいだ。




 どれくらい、木陰のベンチで座り込んでいただろうか。
 突然、咥えていたビニールの容器を思い切り引っ張られた。
 中身はとっくに空で、僅かに温い液体が残っているのみだった。それを所在無さを埋めるように力任せに噛み締めていたものだから、急に引っ張られて思わず唇の端を噛んでしまった。
 痛みに顰めた顔をあげると、相変わらずの涼しい顔が光流を見下ろしていた。
 忍は手にしたアイスの残骸を近くのごみ箱に放り込んだ。
「一時間だ。約束したろ」
 そう言って、光流の横に腰を下ろす。ポケットから煙草の箱を取り出すと、火をつけた。
 沈黙が訪れる。先に折れたのは、光流だ。
「…実家、どうだった?」
「思った通り大騒ぎだ。歓迎されたとは言えないな」
「…本当に、言ったのか?」
「言った。今日はそのつもりで来たんだからな」
 光流は忍を見ることができなかった。
 忍の意思は固い。一度決めたことはどんな障害があってもやり通す。傷つかないわけではない。人より強いわけでもない。ただ、挫けることを自分に許すことができないのだ。
 それが良いことだとは思えなかった。忍が傷つくのを見るのは嫌だ。
 だというのに、忍がその道を選んだのは、他ならぬ光流とのことが理由なのだ。
 二人でいると決めたこと。これからの時間を、ずっと。
 そのことを、実家に告げると忍から言われた時、光流は狼狽した。
 代々政治家を輩出し、地元では知らぬ者のない旧家である忍の実家は、ただでさえ制約が多い。忍への風当たりは相当なものになるだろう。縁を切られることも容易に考えられる。
 光流にはできないことだった。
 忍への想いが嘘偽りのないものであっても、今まで愛情を注いでくれた義理の両親や家族に二人の関係を告げることは、今はまだできない。
 光流は手を伸ばした。
 煙草に塞がれていない方の手を捕まえる。
 忍は逃れようと手を引くが、光流はその力に抗った。
 どちらとも判らない汗で手の平が吸い付く。やがて忍の抵抗も止んだ。
「…光流」
 呆れるような、咎めるようなため息と共に呼ばれて、光流はようやく隣に顔を向けた。
 目が合う。
 想像したような冷たさはそこになかった。
 硬い表情、戸惑い、軽い疲労、そして、光流を探るように見つめる目。繕うことさえ忘れた素のままの忍。
 あまりにも稀な姿に目を離せずにいると、視線が逸らされた。
「忍?」
「…言わない方が、よかったのか?」
 小さく問われる。
 光流は捕まえた手の平を更に握り締めた。
「違うよ」
 そのまま、額を忍の肩に押し付ける。
「…違うから」
 忍の手から火のついた煙草が地面に落ち、やがて火の消える時まで、光流はそのまま動かずにいた。
 暑い、夏の日。
 手の中の熱。胸の小さな痛み。微かな忍の汗の匂い。
 家族にはまだ言えない。けれどその全てを手離すつもりはなかった。

FIN
2006.5.11…ではなくて2008.8.3


初出が2006.5.11でしたが、いっぺん下げたのでした。(某所で拝見した作品と内容が被っている気がしたので…)(でも読み返してみたら勘違いだった…)

ちなみに、ちゅーちゅーアイス(商品名を知らない)は、味は好きですが、最後に数滴、液が袋に残るのに我慢なりません。
頬が痙攣するまで、すってしまう…。
忍さんが、実家に光流との仲をぶちまけに行ったお話でした。
光流はいつまでも家族には言えなそうですが、忍さんは必要を感じたらあっさり言ってしまいそうだと思って…。
『楽園』の数年後の話です。

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