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【チョコレート・キッス】

「うおー、暑ぃ…」
風呂で水を浴びたばかりの体は、自室にたどり着いた時にはすでに汗ばんでいた。
光流が扉を開けると、窓から流れてくるぬるい風が体にあたる。東京の夏の夜風は、涼を運ぶようなものではない。が、まったくないよりはいくらかましだった。
ふと、見慣れない光景に視線が止まる。
白い影が窓枠にもたれていた。
「ただいま」
光流は決して振る舞いの静かなタイプではない。声をかけ、安普請できしむドアを閉めるのにも大雑把な仕草で派手な音を立てた。
だというのに、白いシャツを纏った忍は窓の外に顔を向けたままだった。
忍は椅子を窓の下に据え、そこに腰掛けて、窓からの湿った熱気に身を委ねている。
随分と不思議な気がした。忍が光流の気配に何の反応も示さないことも、漫然とただ窓の外を眺めているのも今までになかったことだ。
「何か見えんのか?」
それとも具合でも悪いのだろうかと光流は思った。風呂に行く前はいつもと変わらないように見えたのだが。
近付いて、肩に手を置く。それでも忍は身じろぎさえしない。余程気分が悪いのかと本格的に心配になり、振り向かせようと肩に乗せた手に力を込めた。
途端、忍が立ち上がる。
振り向いた顔には笑みが浮かんでいた。見たこともない笑い方だと光流がいぶかしんだ瞬間、唇を唇で塞がれた。




手にしていた洗面器と入浴セットが派手な音を立てて床に散らばる。
唇の感触や、唐突に忍にキスされたというショックよりも、ある一つの感覚に光流は驚愕した。

口の中に広がる、甘く、ほろ苦い、チョコレートの味。

たとえ唐突な出来事に動揺していても、ある事を鮮明に思い出した。
忍のようで、忍ではないものの引き起こした、バレンタインデーの事件を。
(なんで)
一瞬で、血の気が下がる。
(何で俺がこんな目に!?)
「〜〜〜〜〜んぎ!!!」
唇を引き剥がそうと首に力を入れるが、後頭部を片手で抱え込まれて逃れられない。背中に回されたもう一本の腕は、両手で抗ってもびくともしない。
光流と忍の体格は、よく似ている。力もそう差はないはずだった。なのに完璧に押さえ込まれていることが、光流の考えの正しいことを証明していた。

ふと、唇が離れる。
鼻先が触れそうなほどの距離で、まるで焦がれるかのように光流を見つめている。
見ている方が痛みを感じる表情に、光流は目を細める。
どこからどう見ても忍だ。
しかし、どこ一つとっても忍ではない。
「っ、こ…んの…、人形が!」
目の前の顔に手の平を押し付けて、遠ざけようとする。しかし、あっという間にその手を捉まれて、痛みに気を取られていると床に後頭部を打ち付けられた。
押し倒されたと意識した瞬間、再び唇が塞がれる。
光流はわずかに自由の利く足を、精一杯ばたつかせた。

腹が立つ。
人形が、よりにもよって、忍の姿であることに。
その姿が蓮川だったら。あるいは瞬だったら。
自意識など持たないだろうチョコレートの人形に、ここまで激しい怒りは感じなかった。

「全く…どうしてくれるんだ、これを」
「やー、度々でホント、えろうすんません」

ふいに頭上から降り注いだ声に、光流は怒りをそがれた。
瞳だけを動かして周囲を探る。すると、見慣れた呆れ顔が光流を見下ろしていた。
肩に、見覚えのある小さな羽根つき宇宙人を乗せている。
「んー!!んー!!」
「いい格好だな、光流」
ままならない言葉で助けを求めている光流に素っ気なく言い放つと、忍は手にしたものを振り上げた。
それは50センチほどの、銀色の細長い棒だった。
光流の顔のすぐそばを、空気の唸りが通り抜ける。
塞がれた唇を通して、鈍い衝撃が伝わった。
途端、口の中に熱いかたまりが注ぎ込まれる。
「!…おっげえぇぇぇ」
光流は人形を押し返した。先程の拘束が嘘のようにあっさりと逃れる。急いで人形から身を遠く離し、吐き気に目を潤ませながら口の中の甘い異物を吐き出した。
「チョ、チョコレート?」
汚れた口の周りをシャツで拭い取ると、茶色に染まった。
いやな予感を感じつつも人形に目を向ける。
人形の片耳に忍によって突き立てられた銀色の棒は、微振動しながら反対側の耳から握りこぶし一つ分、姿をのぞかせている。串刺しにされた傷口からだけでなく、眼孔や口腔、穴という穴から茶色い粘液をとめどなくあふれさせて、人形は膝立ちで痙攣していた。
「ひ、えぇっ、き、気色わりー…」
部屋中に甘い香りが充満する。光流はとてつもなく気分が悪くなった。




ぐったりと床に腰を下ろし疲労困憊している光流の横で、忍がこともなげに人形の残骸をシーツに押し包んでいた。
「毎度おさわがせしましてー」
キーキーと甲高い声で反省の欠片も感じさせない有翼人に、忍は笑いかける。忍を知っている人間なら残らず背筋を泡立てるような微笑だった。
光流はその笑みに、安堵の吐息を漏らす。
これは間違いなく、忍だ。
「ところで、宇宙人」
聞きようによっては楽しそうに、忍は有翼人に話しかけた。
「なんでしょう」
「人形の行動を見ていて、この商品の使い道がよくわかったのだが」
「へ、へえ、そうですか…」
気まずそうに視線を逸らす有翼人。
「自分の姿で体を売るようなマネをされて、俺は精神的な苦痛を受けているんだ。人権侵害だな」
「いや、その」
「商品の管理も悪い。企業として最低だ」
「あー、えーとですね…」
「…出るところに出てもいいんだぞ?」
「いや、それだけはご勘弁を…」
宇宙人相手に訴訟でも起こす気なのか。
光流は突っ込みたかった。しかし疲れていたし、本気で焦った様子の有翼人が小気味よくもあったので黙っていることにする。
「や、もう、このお詫びは後日必ず…。ですから裁判沙汰だけはどうかご勘弁を…」
「…期待しているよ」
有翼人は、じっと注がれる忍の目を逃れるように、早々に包みを持って夜の空に飛び去った。
忍が振り返った。
「お疲れのようだな」
「…当り前だろー」
深いため息をつく光流に、忍は意地悪く笑いかける。
「俺とのキスはどうだった?」
正直言って、キス自体には何の感想もない。最初から偽者だとわかっていたのだから。
しかし、心底面白いと思っているらしい忍に、そのまま素直に答えるのは癪に障った。

誰のおかげでこんなに消耗していると思っているんだろう。
…本当にこいつは、わかっていない。

何か言い返したくなる。光流はにやりと笑った。
「…よかったぜぇ?興奮して今夜は眠れそうにねーなぁ」
目を合わせると、かすかに忍の瞳が揺れたのがわかった。
忍が、心を乱している。
立ち上がったのは無意識だった。
歩き出すと止まれなくなった。
「…疲れてるなら、俺のベッドを使ってもいいぜ」
その言葉が自分を立ち止まらせるために発せられていると気付く。しかし、構わずに光流は忍との距離を縮めた。
鼻先が触れそうなほどのところでようやく立ち止まる。
忍の表情は焦がれるような甘いものではもちろんない。
戸惑いを押し隠す無表情。
瞳の奥に燻るのは、先に目を逸らしたくないというプライド。
「お前、本物の忍?」
偽者ではないとわかっていて、光流は聞いた。
しかし、問われた忍は怪訝な顔になる。
「何を言って…」
「確かめるよ」
そのまま少し進んだだけで、唇は重なった。
硬直したままの柔らかい唇に、自分の唇をゆっくりと触れ合わせる。
そして離れてから、笑って言った。
「チョコの味はしねーな。本物だったか」
ふざけたような光流の言葉に、忍も小さく笑った。
「どう?興奮して眠れなくなっちまったか?」
「コレぐらいのことで俺が不眠になるとでも?」
「じゃ、確かめてもいいか?夜中さ、お前がちゃんと寝てるかどうか」
「…どうやって?」
「何しても目を開けないかどうか。簡単だろ?」
「お前が起きていられるか疑問だな」
「試してみるさ。…おやすみ」
光流はその場に忍を残し、二段ベッドの上に登るとカーテンを閉めた。
心臓が痛いほど鳴っている。
起きていられるかだって?
それどころではない。一睡だってできないだろうと光流は確信していた。
ちゃんと忍が眠れているか、きちんと確認するその時までは。




後日。忍宛に大きな包みが届いた。
人が一人、充分に入れるほどの大きさだった。
包みからは、甘い香りが漂っていた。
光流は黙って、その包みを210号室に放り込んだ。

FIN
2005.8.


拍手お礼に載せていたお話です。
書きたかったのは、
「何で俺がこんな目に〜!!」
という光流の叫びでした。あとギャグにしようと思ったのに、脳が湿気ってたのか不発…。 書き直すこともできず(時間が、ではなく能力的に、です)、そのままにすることにしました。

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