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【雪と忍と煙草の煙】
12月23日の商店街はクリスマス一色だった。
どこもかしこも赤と緑のリボンで縁取られ、ショーウィンドウにはそりに乗ったサンタクロースが白く描かれている。木という木にはお決まりのイルミネーション。
忍は目線を上げた。
空はどんよりと曇っていた。気温は午後に入ってから急激に下がってきている。紙袋を提げている手が、かじかんでいる。
これは降るかもしれないな。
雪の多い地方で育ったカンのようなものか、その忍の予想は程なく現実となった。
空から大粒の雪が舞い落ちる。水っぽくて積るようなタイプの雪ではないが、辺りで子供たちが歓声を上げていた。
雪は忍に、嫌でも実家のことを思い出させた。明日の二十四日から正月明けの五日まで、帰らなければならない場所。
手にした紙袋が重い。
中には実家に持っていく手土産が入っている。東京の有名な和菓子屋で買った菓子の詰め合わせ。店も、中身も適当に決めた。一年の正月も、二年の正月も、何を買っていっても実家の母の反応はいつも同じだった。だからきっと、三年の今年も同じだろう。
まあ、ありがとう。いいお品ね。
土産を受け取った時、自分に良く似た母親の浮かべる笑顔は一部の隙もない忍の作り笑いとそっくりだった。
…つまり、何を持っていったところで喜ばないのだ、あの人は。
大事なのは、久しぶりに手土産を持って帰る息子と、そんな息子を暖かく迎えて土産を喜ぶ母親という寸劇。そして観客。
忍が実家に到着すると、いつも必ずその場には第三者がいた。父親の後援者。地元の有力者。母親の友人等々。
とんだ、茶番だ。
そんなものにつき合わされた挙句、年末から正月にかけて行われる様々な集まりに息子として参加することを強要される。
忍はコートのポケットを探った。タバコはまだ数本残っていた。
「見逃すのは一回だけって言ったよなー」
声を聞いただけで、誰であるかは分かった。心中で舌打ちしつつ、笑顔で振り返る。
「こんにちは、蓮川先生。買い物ですか?」
「まあね。年末だし」
保健医がすぐ後ろに立っていた。降りしきる雪の中大振りの傘を差し、手に買い物袋を下げている。その背後、街の雑踏の中をすみれが緑を抱いて遠ざかるのが見えた。
街の中心部にある公園のベンチに座ってから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。タバコは三本目に火を点けた所だった。体はいつの間にか冷え切っていた。前髪から落ちる雫が頬を濡らす。忍はコートの内側に紙袋を隠しておいて正解だったと、場違いにも思った。
「僕に構わず、家族サービスして下さい」
「迷いがちな生徒を導くのが仕事なものでね」
保健医は、ベンチに薄く積った雪を払いのけると、忍の隣に腰を下ろした。
さて、どうしたものか。
忍は笑顔を張り付かせたまま、頭を働かせる。以前、喫煙を見咎められたときは何となく見逃してもらったのだが、今回はそうはいかないだろう。隣室の弟とは違って頭のキレがいいこの保健医を、口先でどうにかできるとは思えなかった。
素直に制裁を受けるか…。
考えた挙句、家に報告されるのも悪くないと思い始めた。あの母の作り笑いがどう壊れるかはちょっと楽しみでさえある。
そう思い切ってしまうと余裕ができた。観念の意を伝えるため、ライターと携帯灰皿、タバコの箱を保健医に差し出す。保健医はそれを黙って受け取ると、自分のコートのポケットに落とした。
「僕、迷っているように見えますか?」
笑顔を消さない忍の問いに、保健医はため息をつく。
「頭に雪積らせといて、何言ってる」
言うなり、保健医は忍の頭を払った。意外にたくさんの氷の粒が飛んでいく。
「長野育ちなもので、雪には耐性があるんですよ」
「まったく…」
そして、深刻な顔を忍に向けた。
「俺は今まで生きてきて、君みたいな繊細な人間には会ったことがない」
忍は意外な言葉に一瞬目をみはった。
「…自分のことを言われている気がしないですね」
「自分のことは、案外、自分には分からないものだ」
「よく聞く言葉ではありますね」
「よく言われることは、案外、正しいよ」
雪は相変わらず降り続いている。しかし、保健医の傘が忍の頭上にも差しかけられていて、これ以上濡れることはなかった。それが有難いかといえば、微妙だが。
…男と相合傘とは、長く続けていい状態じゃない。
「では、繊細な僕はこの先どうなりますか」
忍は会話を結論にまで持ち込んだ。
「うーん、そうだなあ…」
保健医は、頭を垂れてしばらく考え込んでいたが、
「…そうだな、こうしよう」
面白そうに目を細めながら忍を見た。
この顔はどこかで見た事がある…。
すぐに思い当たった。光流が良からぬ事を思いついた時の顔だ。とてつもなく嫌な予感がした。
「…蓮川先生」
「これから寮に戻って、まだ居残ってる奴一人残らず、『メリークリスマス、よいお年を』と言って歩くってのはどうだ?うん、いいじゃないか。そうしよう」
「は?」
「ちゃんとやり遂げろよ?光流に後で確認するからな。ちゃんとできたらご褒美に、タバコの件はもう一回だけ見逃してやる。いいな?」
「それと喫煙とどう関係が…」
「やってみりゃ分かるさ。ほれ、風邪引くなよ、受験生」
保健医は忍に傘を押し付けた。自分はコートのフードを被り、足早に去ってゆく。
後には一人、渋い顔の忍が取り残された。
雪は、忍の予想に反して積る気配を見せ始めた。時間が経つにつれ徐々に小さくなっていく氷の小片が、絶えることなく天から舞い落ちる。
足跡を残しつつ歩いてきた忍は、寮の正門で立ち止まった。
忍の覚悟は固まっていた。やってやる。一人残らず『メリークリスマス、よいお年を』と言ってやる。
タバコの件がどうと言うよりも、保健医への意地が強かった。
…俺がこんな月並みな挨拶もできない社会不適合者だと思っているのか。
微妙にプライドを刺激する保健医の罰に、苦々しいものを感じる。
苛立ちを抱えたままの忍が前庭を横切って玄関にたどり着いたとき、中からスポーツバッグを抱えた栃沢が現れた。
瞬間、忍の不機嫌な表情はいつもの笑顔に切り替わる。もはや、反射だ。
「あ、忍先輩お帰りなさい」
「栃沢…これから実家か?」
「はい、5日まで帰ります…が」
栃沢の顔が引きつった。忍が栃沢の真正面に立ちふさがったからだ。
「そうか…今、帰るのか」
忍は更に、目の前で青ざめている後輩に顔を寄せる。
ここで会ってしまった以上、栃沢も保健医がいった居残り組に入るだろう。
栃沢は後ずさった。しかし、寮の玄関扉が栃沢の後退を阻む。
「な、な、な、何です!?」
「…栃沢」
忍が栃沢の両肩を掴んだ。
「ひぃっ!?」
そして耳元に唇を寄せささやく。
「メリークリスマス…よい年を」
栃沢は、一瞬で凍りついた。
動いているのは口の端の痙攣ぐらいで、残りの部位は石の様に硬くなっている。
なぜ、固まる?
忍は不愉快になった。ただ、挨拶しただけだ。俺がクリスマスの挨拶をするのがそんなにおかしいのか?
動かなくなった栃沢を邪険に押しのけ、忍は玄関内に入る。
そこでは、外の異常事態を伺っていた数人の寮生が、青い顔をして忍を見つめていた。
忍は有無を言わさず、手近な二人の肩を鷲掴みにした。
「よー、おかえりー」
コタツに足を突っ込み、藤掛から巻き上げたみかんを頬張りながら雑誌をめくっていた光流が顔を上げた。
「…どしたん?」
コートを個人用のロッカーに掛ける忍の表情が硬いことに目ざとく気付き、聞いてくる。
忍は、のんきな顔を向けてくる同居人を見下ろした。
こいつにも、アレを言うのか…。
三年近く毎日顔を突き合わせている同居人に、今更改めて言うことでもない。
他の寮生に言うことに関しては、さして抵抗を感じないのだが、光流にはいまいち言う気になれなかった。いやむしろ、はっきりと嫌だった。絶対言いたくない。しかし言わなければ保健医の条件は満たせない。しかし…。
…取り合えず、後回しで構わないだろう。
「いや、別に…ところで、光流」
忍は紙袋を自分の机にぞんざいに置いた。
「ん?」
「俺はこれからちょっと出てくる。夕食までには済むだろう」
「ああ、わかった…あれ、おい、スリッパ履いてかねーの…」
光流の疑問を聞き流し、廊下に再び出る。そして隣室の扉をノックした。
「はあい、どーぞー」
少女のような高い声が入室を促す。
「入るぞ。蓮川、聞きたいことがあるんだが」
机に座って参考書を広げていた蓮川が、ぎょっとしたように振り返った。コタツに座ってマンガを読んでいた瞬も、驚いたように忍を見上げている。
「俺に?…忍先輩が!?」
「俺が聞きたいことがあっちゃまずいのか?」
「い、いえ、決してそんなことは…」
「今、寮に誰が何人残っているか、正確な人数が知りたいんだ。できれば寮生名簿を見せてくれ」
「それは、構わないですけど…」
蓮川は目の前の本棚から、寮長が点呼のときに持ち歩くボードを出した。ボードに貼られた名簿には各学生の帰省予定が書かれていることを、同居人が寮長をやっていたため忍は知っていた。
「どうぞ」
手渡された名簿にざっと目を通した後、目の前で緊張している蓮川に返す。
「え、もういいんですか?」
「ああ、覚えた。五十三人だな」
目を丸くしている二人に背を向け、忍はドアに手をかけた。そのまま、口を開く。
「お前たちは後でいい…特に蓮川、お前はトリだ…」
一挙に温度が下がった部屋を後にする。中から、『すかちゃん、今度は何したのっ!?』『し、知らない!俺、何にもしてない!!』と悲鳴に近いやりとりが聞こえてくる。
確かに蓮川の手落ちではない。しかし。
…恨むのなら、兄貴を恨めよ。
何か仕返しをせずにはいられない心境の忍だった。
「玄関の奴らはそれぞれの部屋に収容したぞ!」
「…栃沢、電車、間に合わねぇんじゃねーの?」
「いったい、何なんだ!レプリカントがまた来たのか!?」
「ありゃ本物だべ…」
「怖えーよー」
「俺、明後日帰省の予定だったけど、早めよっかな…」
忍の奇行は、すでに寮中に広まっていた。
「おい…門限ぎりぎりまでどっかいってようぜ」
「おう、そうだな」
ここにも忍の魔手から逃れようと画策するものが二人。岡崎と森永。
二人は忍と同級で、その恐怖をより身近に知っていた。
靴を持ち、二人の部屋である312号室をでる。1階の窓の鍵を必死でねじっていると。
「何も窓から外出しなくても。夜にはまだ早い」
「し、忍っ!?」
「い、いつのまに…」
すぐ背後に立つ忍は氷の微笑を浮かべていた。
「岡崎…よくそこから夜中抜け出して電話していたあの子には『もうかけてこないで』と言われているんだろう?」
「ぐっ…!」
「森永…夜専門のあの手の劇場に出入りするのは、高校生として宜しくないと思う。大学まで待っとけ」
「げっ…!」
『なぜ、それを知っている!?』
二人でハモる。直後、お互い気まずげに顔を見合わせた。
「な、なんだよ岡崎、彼女と終わってんなら、昨日のデートっつーのは、ありゃウソか?」
「お前こそドコにナニ見に行ってんだよ!?」
「まあまあ、喧嘩をするな。同室でそれじゃやりきれないだろう?」
にっこりと微笑んで二人の肩に手を回す。そのまま、忍は二人を引き寄せた。体を強張らせている二人の耳元に囁く。
「メリークリスマス、よい年を…。ま、受験が終われば色々楽しめるさ」
背筋がさざなみ立つような低い声。
岡崎と森永はその場にへたり込んだ。
直後、忍は顔を上げる。
「ふん、玄関か…」
忍は腰を抜かした二人には見向きもせず、前庭に面した窓を開けた。腰壁を一挙に飛び越える。
二人は目を見開いた。
「なんか…めずらしいもん見ちゃった気がする」
岡崎がぼそりとつぶやく。
二人は冷たい廊下に腰をおろしたまま、忍が姿を消した窓をいつまでも見つめていた。
「トモミチ、なんで逃げる?ぼくはさむいのはイヤだ」
「あほゆーとる場合とちゃうで!ここに残ってたら何されるか分からん。取り合えず外、出といた方が安全や」
嫌がるフレッドを無理やり玄関に引っ張り出した野山は、辺りを見回した。そこはかとなく漂う荒んだ雰囲気。周囲には誰もいない。皆何かに怯え、部屋でじっと息を潜めている。
危険や。間違いなく危険が迫っとる…!
関西でも荒事が多い地区の出身である野山は、その手のことに鼻が利いた。
「えーから俺のゆーこと聞いとき!さ、行こ!」
しぶしぶ靴を履いたフレッドの、妙に分厚い上着の袖を引っ張って玄関の扉を押し開ける。
「嫌がるフレッドとどこに行くんだ、野山」
「はうっ…!」
「忍センパイ、こんにちはです」
忍は玄関扉の脇で、濡れた靴下を脱いでいた。体にはうっすらと雪をまとっている。そこから考えられることは一つ。忍はどこかから外を通ってここまでやって来たのだ。
いったい何のために?
野山は思いついた結論に身震いした。
…自分とフレッドを捕まえるため、だ。
野山の脳裏に、以前二年生の先輩から聞いた言葉が蘇る。
忍先輩はね、ここで一番怖い先輩なんだよ…。
その時は、どこが怖いものかと取り合わなかったのだが。
濡れた靴下を絞っている忍の足元は素足。玄関ポーチはタイル貼りだというのに、眉毛一つ動かさない。雪はすぐそばまで吹き込んでいる。見ているだけで寒気がする光景。
十分…猟奇や!
野山の警戒の視線を気にも止めず、忍はフレッドに近付くと、囁いた。
「フレッド、I wish you a Mary Christmas and a Happy New Year.」
「OH! I wish you too…ありがとございます!」
にっこりと笑うフレッド。忍も微笑み返す。
あかん。あかんで、フレッド、そんな無防備な…。
野山はじりじりと二人から後退する。
そんなこっちゃ、いつかワケわからんうちに殺されてしまう!!
野山は寮内に駆け戻ろうとし…襟首を掴まれ引き戻された。
「おや、野山…どこかに行くんじゃなかったのか?」
後ろから、耳元で囁かれる。背中を冷気が立ち上った。
「…いえー、もうその必要もないかと…」
「実家へはいつ帰るんだ?」
「あ、明日には」
「大阪は街のデコレーションもにぎやかだろう…メリークリスマス、よい年を。喧嘩で思わぬ怪我などしないようにな…」
一段と抑えた声音は危険なほど心地よかった。
野山の膝から力が抜ける。
「どうした?トモミチ?」
呆然と座り込んだ野山の手をフレッドが引っ張る。
忍は二人を外に残し、玄関の中に入った。
そしてズボンのポケットからガムテープを取り出す。両開きの玄関扉の、それぞれ左右についているハンドルを、ぐるぐる巻きにして留め始めた。
外に締め出された野山は扉のガラス越しに忍の顔を盗み見た。先ほどまで浮かべていた微笑はきれいに拭い去られていた。全くの、無表情。
どひー!訳わからん…!!
テープ一本分、丸々使って止めた扉は、刃物を使っても簡単には開きそうにない。
野山は『忍が怖い』という言葉の意味を、身を持って知ったのだった。
「よー、すか、瞬、入るぜー」
光流が隣室を訪ねた時、蓮川は頭を抱え右往左往していた。
「まったくさー、身の程を知れってのよ!すーぐ忍先輩に刃向かっちゃってさあ!」
瞬が辛辣に吐き捨てる。
「でででででででも今回はほんとに何の心当たりもないんだっ…!」
「今までのムカつきがずーっと溜まっててさあ、一挙に爆発しちゃったのかも知れないじゃん!忍先輩のは軽い冗談なんだから、真面目に反発しちゃだめでしょう!?」
「お前、あの非道の数々を軽い冗談だと言うのか!」
「おーい、二人とも、ちょっと」
「ああっ光流先輩!!」
ようやく光流の入室に気付いた二人が素っ頓狂な声を上げる。
「お前らさあ、忍が何してんのか知ってるか?」
「知ってるも何も…」
瞬が光流にすがりついた。
「すぐに何とかしてよお!このままじゃ僕、すかちゃんの巻き添えくって殺されちゃうよ!」
「だから今回は俺、関係ないって…!」
「いや、だからな、具体的に忍は何をしてる訳?」
「光流先輩、知らないのお!?」
「おう。さっき外見たら、あの忍が雪の中、庭を全力疾走してやがってさ。何かあるだろーとは思ったけどよ」
「忍先輩が…庭を全力疾走…?」
蓮川が震える自分の体を抱いてつぶやいた。
「この世の終わりだ…!」
「忍だって走ることぐらいあるだろーよ…ま、珍しいことは確かだがな。何か一生懸命にやらなきゃなんないことがあるらしいのは判るんだが…で、何なんだ」
光流は自分の胸倉を掴んでいる瞬の頭を小突いた。
「忍先輩はねえ、寮生を一人一人捕まえてねえ…」
差し迫った顔で、蓮川が瞬を押しのけた。
「『メリークリスマス、よい年を』なんて耳元で言って歩いてるんですよっっ!」
「ぶっ…忍がっ」
光流の、綺麗といって差し支えない顔が一挙に笑み崩れる。
「あの澄ましくさった顔で…っ!?」
「笑い事じゃないよ!」
「忍先輩にそんなことささやかれる身にもなって下さい!!お、怖ろしくて怖ろしくて俺は…」
お前はトリだとわざわざ告げられている蓮川は、恐怖もひとしおだった。顔をこれ以上ないというぐらいに歪める。
「何だよ、すか。ただの年末の挨拶じゃねーか。そんなに怯える必要ねーべ?」
「その普通を忍先輩がやってるって所が怖ろしいんです!」
「なんだそりゃ…。ふうん、寮生全員に、ねえ。お前ら、理由は知ってんのか?」
蓮川と瞬は首を振った。
「ま、いいか。後で問い詰めるとしよう…じゃあな!」
「え、ちょっと、光流先輩、何とかしてくれないの!?」
ドアに戻りかけた光流は振り返り、にやりと笑った。
「こんな面白いこと、途中でやめさせるかよ」
まったく、もう!
瞬は、光流が出て行ってしまうと、騒ぐ蓮川を見捨てすぐに自室を出た。その足で三階便所の個室に隠れる。
寮生の情報によると、寮を脱走しようとする者から狩られているらしい。なら、どこかに潜んでやり過ごしたほうがいいだろう。本当は自室にこもっていたかったのだが、狙いの中心に蓮川がいる以上あの部屋はかなり危険だ。
それにしてもトイレってどうして暖房いれないんだろう…寒いったらないよ!
瞬は心の内で愚痴る。
昔ながらのタイル張りの内装から放射される冷気は、はんてんに身を包んでいても容赦なく染み込んできた。
しばらくがたがたと震えていると。
かちゃり。
便所のドアが開いた。専用の履物をつっかけて、誰かが中に入ってくる。
瞬は息を呑んだ。
すると、その人物は掃除道具の入ったロッカーを開けた。何かをロッカーから取り出している。
この時点で瞬は、もっとも来て欲しくない人物が来てしまったことに気が付いた。
水栓から水を出す音。そして何かを浸している、ベチャベチャと言う音。
突然、個室のドア上部の開いた部分から、水の滴ったモップが差し入れられた。
ひっっ!
それでも瞬は声を堪える。
「瞬…真冬に水浴びもないだろう。でておいで」
なんで僕ってわかるの!?
それでも瞬が躊躇っていると、
「…いけないな。先輩の言うことは聞くもんだ」
更にモップが瞬の頭に近付く。
「うっ、わー!開けます、開けます、今開けます!!」
モップを避けながら、鍵に手を伸ばす。
開錠と同時にモップは引っ込められ、ドアを開けて忍が個室に入ってきた。狭い空間で二人向かい合う。
「し、忍先輩っ、ここにはすかちゃんはいないよっ!」
「知っている。蓮川は自分の部屋で必死に外の様子を伺っているところだ」
だから、何で判るわけ!?
パニックで頭が疑問符一杯の瞬に、柔らかい笑顔が降りてくる。
「今は、お前に用があるんだ、瞬…」
「ぐひっ…」
柔らかい髪が、瞬の頬を掠った。
「メリークリスマス…よい年を」
耳に、暖かい息がかかる。
「!!!」
腰に力が入らなくなり便所の床に倒れこみそうになる瞬を、忍は抱きとめる。
「…お前もか、瞬」
そのまま抱えあげると便所の外まで連れて行き、廊下に腰を下ろさせる。
「何でどいつもこいつも腰を抜かす?フレッドだけだぞ、まともに返事をしたのは。まったく、失礼な奴ばかりだ」
眉間に微かな皺を寄せて憤慨を表す忍。
フレッド…尊敬しちゃうよ。コレに耐えられたなんて。
瞬は動悸を抑えつつ、尋ねた。
「先輩さあ、何で耳元でごにょごにょ言うの?」
「正面からこんなことを言ったら俺もさすがに気恥ずかしい」
こっちのほうが恥ずかしいだろ、普通は!!
心の中で突っ込む瞬。
その時、二階から大きな音が響いてきた。
「ん?蓮川か…往生際が悪いな」
忍は走り始めた。その意外な速さに瞬は目を見開く。
「…ホント、敵にしたくない人だよね」
蓮川は走った。
部屋でじっと耳を澄ましていたら、三階の便所から物音が聞こえた。寮中が息を潜めている今、音を立てる人物は一人しかいない。
今しかない、と思った。忍から逃れるのは。
他の何も敵う気はしないが、少なくとも走るということに関しては自分に分がある。今、忍が三階にいるのなら、どう考えても自分が外に出られる方が早い。そう思った瞬間、部屋を飛び出していた。
階段を三段飛ばしで下り、玄関に向かってダッシュ。靴箱から自分の靴をかっさらい、突っかけるだけで玄関扉に手をかける。
「あ…れ?」
しかし扉はがたがた言うだけで、開けることができなかった。
一瞬後、ガムテープでぐるぐる巻きにされたハンドルに気付く。
「なんだこれは!!」
「甘いぞ、蓮川」
微かに息を荒げた、聞き覚えのある声が背後から聞こえてきた。
走ってきたため熱くなっていた体が一挙に冷える。
後ろを振り向けないでいる蓮川の耳に、更に別の音が聞こえてきた。
かち、かち、かち。
蓮川にはその音が何であるかすぐに判った。日常よく使う文房具の音。しかし、それを忍が持っていることに戦慄が走る。
突如、すぐ脇に差し出されるカッターナイフ。
「わあっ!?」
忍は無言で、大振りのカッターナイフの刃をガムテープの塊にあてる。装着された刃はノコギリ刃。そしてゆっくりと引きはじめた。
ぎーこ、ぎーこ、ぎーこ。
一回引くごとに、蓮川の心臓の鼓動が早まる。やがて。
ぶつんと音を立てて玄関扉はガムテープの呪縛から放たれた。
そのショックで我に返った蓮川は踵を返そうとし。
「まあ、待て」
「うっ…!」
目の前に差し出されたカッターナイフに再び硬直した。
「蓮川には…そう、ご家族にも本当に今年は世話になったな」
忍はゆっくりと蓮川の正面に回りこんだ。
蓮川の両肩をしっかりと掴む。足元に落ちたカッターナイフが乾いた音を立てる。
そして凄絶な笑顔が蓮川の視界一杯に広がった。
「新寮長就任の時のアレや、緑の世話を押し付けられたアレや、寮祭のあとに苦労させられたアレや…」
「ひっ…」
「…メリークリスマス蓮川…これからのお前にいいことが山とあるように、心の底から祈っているよ。ああ、そうとも。俺の呪力の限りを尽くして祈ってやる。卒業までの我慢だなんてつれない事は思わないでくれよ。俺の力の有効範囲は関東圏を軽く超えているからな…」
それから忍は声のトーンを落とした。蓮川のために、蓮川にだけ聞こえる小さな声で囁く。
「よい、年を」
蓮川の意識は暗黒の彼方に消えた。
やっと片付いた。
蓮川には特に念入りな挨拶をしたことで、忍はかなりの満足を感じていた。
自室のドアを開けると。
「おっかえりー!忍くん!!」
妙にハイテンションな同居人が諸手を挙げて迎え入れた。
…こいつを忘れてた。
あからさまなしかめ面を光流に向ける。
「俺、まだ言われてないんですけどっ!」
いかにも楽しげに目を細める様は、忍に罰を告げたときの保健医とそっくりだった。
「言いたくないよな!そうだよな!俺もお前にあんなこと言うの絶対ヤダもんね。ああ、じゃあ、ちょっと舞台を変えようか、お前が言いやすいようにさ…あー俺って親切ぅ」
殴ってやりたい。
しかし受験前に拳を傷めることほど愚かなことはないと思い止まる。
上機嫌な同居人は忍にコートを放ってよこした。自分も上着を着込むと、にやりと笑う。
「外行こうぜ、外!雪、積って雰囲気あるぜぇ」
「さあ!言ってくれたまえ!!」
緑林寮前庭に、公道を背に立つ光流。
「…」
忍は寮を背に、光流から少し離れて対峙する。
雪は相変わらず降り続いている。積雪はすでに十センチを超えていた。くるぶしに冷たい感触。
それでも二人は向き合ったまま、動きを止めた。
現在寮に残っている全員が、玄関に集まり固唾を呑んで二人を見守っていた。誰も外に出ようとしないのは、際限なく忍を挑発する光流と最早隠しようもなく不機嫌な忍が怖ろしいからだ。
「ちょっと、すかちゃん!対決の行方が気にならないの!?」
瞬に呼ばれるも、蓮川は群集の最後尾で膝を抱えている。
「いいんだ…俺はもう終わりなんだ…」
「…なんかこいつ、再起不能っぽいんですけど」
「大丈夫だって!すかちゃんなんて打たれ強さだけが取り柄なんだからさ、しばらくすればけろっとしてるって」
「瞬、ホントお前、容赦ないな」
「お、光流先輩が動いたぞ!」
皆が固唾を飲む先で、光流が数歩、忍に歩み寄った。
「さあさあ、お兄さんに言ってごらん?素直になってさあ」
忍は諦めのため息をつく。
言わなければならないのは確かだった。
五十二人に挨拶をしまくったというのに、最後の一人に言えなくて全てを水の泡にするほど忍は潔くはない。
…けれども、お前にこんな言葉意味ないと思うんだけどな。
目の前の、へらへらと笑っている同居人を見る。
だって、お前は。
「…メリークリスマス」
…いつだってお前は悲しみに呑まれることはないし、何が起こっても一人で立ち向かえる。
だから俺みたいな奴の言う『ご陽気な』クリスマスを願う言葉なんて意味がない。
たとえ、年末に帰る実家の人々とお前の間に血の繋がりはなくて、その事にお前が苦しんでいるとしても…それでも判っているんだろう。自分が家族を愛していること。自分が家族に愛されていることを。
だから、来年だけじゃない。この先もずっと、お前には『いい年』が続く。
「…よい年を」
言ってから、忍は気が付いた。
いつの間にか光流が無表情になっている。
「?」
光流はそのまま忍に向かって歩きだした。やがて、すれ違い様。
「…メリークリスマス、よい年を」
微かな声でつぶやく。
そのままずんずん歩いていき、玄関扉を開け、なだれ出てくる寮生を掻き分けて中に入っていく。
残された忍はその後ろ姿を凝視した。
すれ違った時、雪明りに浮かんだ光流の顔。単なる無表情ではなかった。少し怒ったような、戸惑ったような。そして、微かに上気した頬。
光流、お前…!
「照れるくらいなら、言わすなよ!!」
思わず言葉が漏れた。
誰かに聞かれなかったかと玄関を見る。騒いでいる寮生達の中に、こちらに気を向けているものはいなかった。
…もう少し、ここにいるか。
空気は冷たいというのに、顔が異様に熱い。今、あの中に戻ったら、怖ろしく気まずい思いをするだろう。
雪の降る、もうすっかり日の落ちた暗い空を見上げる。
所在なげに立っていると言うのに、不思議と煙の匂いを恋しいとは思わなかった。
「じゃーねーみんな!また来年!!」
次の日、帰省日が同じである瞬と忍は、親しい寮生に見送られて寮の外に立った。
雪は止み、青い空には真冬の太陽が照っていた。積った雪に反射して、目を細めたくなるほど眩しい。
「おう、また来年な!」
明るく笑う光流。その隣に、ほんの少しだけ立ち直った蓮川。岡崎に森永。フレッドもいたが、野山は寝込んでいるらしい。
「蓮川」
忍に名を呼ばれて、蓮川はびくりと身を震わせた。
「な、なんですか?」
逃げ腰の蓮川に、たたんだ傘を差し出す。
「蓮川先生に借りたものだ。返しておいてくれないか」
「は、はい。わかりました」
恐る恐る傘を受け取る。
「なんだ、忍、お前いつ保健医と会ったんだ?」
怪訝そうな光流に、忍は視線を移した。
「昨日、買い物帰りに会った」
そこで光流は閃くものがあったようだ。
「すか!俺、お前が帰るとき、一緒についてくぞ!」
「えっ、何でですか!?」
「何だ、その嫌そーなツラは。お前の兄貴に用ができたんだよ!」
昨晩、落ち着きを取り戻した光流に散々今回の騒動の理由を聞かれたが、忍は気まずい思いをさせられた腹いせに答えなかった。保健医は光流に事の成り行きを問われても答えそうにないが、もし話してしまったとしてもそれはそれで構わない。
それよりも。
「蓮川」
「はいっ!?」
再びの呼びかけに飛び上がる蓮川に、忍は言葉を続けた。
「あともう一つ頼みがある。蓮川先生に伝えてくれないか。言わんとすることは、全部ではないが理解した、と。そう言えば判るだろうから」
自分が繊細な人間だとは到底思えないが・・・。
確かに自分はあの雪の中、迷っていたのだ。
変えようのない家族との関係に。変わろうとしない頑なな自分に。
それが。
月並みな挨拶を交わすだけで、あれだけ心を揺さぶられた。
タバコを必要としない瞬間があった。
変わること。変わらない事。…全ては自分の中にこそ、ある。
「じゃあ、また来年」
そう言うと、忍は瞬と並んで皆に背を向けた。
「うおー、寒ぃー・・・。蓮川ぁ、光流も、中に戻ろうぜ」
そんな森永のボヤキにも似た声が、背中を押す。
忍はほんの少しだけ前向きに、実家へ帰る足を進めた。
メリークリスマス、よい年を。
FIN
2005.4.3
文章って難しいです。思ったように書けない。
そして激しく時期外れ…。書いたのは去年のクリスマス前でしたが…。
※画面を閉じてお戻りください。
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