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【僕は機嫌が悪い】

 物理の教諭に呼び出され、昼食を早めに切り上げると職員室を訪れた。
 教諭の机の前に立つと、大げさにため息をつかれた。
「どうした、手塚。あのざまは」
「…少し、気が緩んでいたようです」
 忍はあらかじめ用意しておいた言葉を、オートマティックに述べた。
 追求しようのない返答に、教諭は言おうとしていた小言を渋い顔で飲み込んだようだ。
「判っているなら、今回はいいだろう。だが、お前ももう三年だからな。一番大事な時期だぞ。油断するんじゃない」
「気をつけます」
 こうして、呼び出しから随分あっさりと開放される。
 職員室を辞してすぐ、忍はそっとため息をついた。
(たかが小テストで呼び出しとはな)
 物理の小テストで、忍には珍しい不注意による不正解が一問あった。解が間違っていたわけではない。うっかりと、解答の数値に添える単位を書き間違えたのだ。
 あの物理の教諭は抜き打ちテストを好んで行う。
 しかし忍にとってはどうということもなかった。普段から勉強に手を抜くことなどなかったので、いつ実力を試されても、余程高等な応用問題でも出題されない限りは、氏名欄に名前を書くのと同じ程度の労力で臨むことができた。
(しかし、あんなケアレスミスを犯すとは)
 常の努力が水泡に帰したような気分だった。しかも、他の誰でもない、自分自身のせいで。
 一度苛立った心は簡単には鎮まらなかった。ささくれる内心を抱えたまま、教室に戻ろうと歩き出す。
「手塚君、ちょっと」
 ほんの数歩を歩いたところで呼び止められた。
 瞬間に苛立ちを心の奥に押し込める。振り返ると、学年主任の女性教諭が紙束を抱えて立っていた。
「悪いんですけどね、これを貼り出すのを手伝ってくれない?」
「はい。お手伝いします」
 完璧な笑顔を作り出し、女性教諭の手から紙束を受け取った。
 指示に従って、職員室のすぐ脇にある掲示板に画鋲で紙を貼っていく。それは新学期早々に行われた模試の結果発表だった。
 手塚忍、当然1位。
 その後、何とはなしに目で探した名前を思わぬところで見つけて視線が止まる。
「池田君、落ちちゃったわよねえ」
 忍の目線に気付いた教諭が話しかけてくる。
 そこに毛筆で書かれた文字は、『三十位 池田光流』。
「同じ部屋のよしみで、よく言っておあげなさい」
「…そうします」
 作業を終え、教諭に別れを告げる。彼女に背を向けた途端、笑顔の仮面がごっそり抜け落ちた。
(何をやっているんだ、あの馬鹿は)
 二年生最後の期末テストでは、学年10位以内をキープしていたはずなのに。
 休み時間で騒がしい廊下を、いつもよりやや大またに歩く。春の陽気はうららかで、開け放たれた窓から暖かい風と共に八重桜の花びらが舞い込んでくる。
 今は四月。高校生活は、あと一年もない。
 このふざけた調子で、30位の男はどんな進路を目指す気なのだろう?
 胸を押しつぶすような不愉快さが、テストのミスで感じた苛立ちを押しのけた。




 食堂で『今日の定食』をかきこむ間も、光流は辺りを見回していた。
「何。落ちつかねーな」
 一緒に食事をしていたクラスメートに咎められる。
「…いや、別に」
 昼休みに混雑する食堂の中に、思い描いた同居人の涼しい顔は見当たらない。
 今日は模試の結果発表の日だった。
 今回の模試に失敗したことは、結果を見るまでもなく判っていた。特に勉強をさぼった気もないのだが、模試に出た問題は光流の知識の範囲を超えていた。
 試験では自分の知らない出題が重なることもある。しかし、三年になった途端にこれでは幸先が悪い。模試ならまだいいだろう。でももし、大学入試の本番で同じことがおこったらと思うとぞっとする。
 そうならないためにはこれから身を粉にして勉強するしかない。そう決意することで無理矢理不安を押し込めた。
(あいつには…そんな心配は必要ないんだろうな)
 学校の付属寮で同室の手塚忍は、油断はしないとうそぶき、その通り確実に実行してきた。
 主席で名門緑都学園に入学した忍は、三年の今に至るまでその座を守り続けている。
 それに引き換え、光流は補欠入学だ。
 光流はその差に居心地の悪さを感じていた。
 中学時代は緑都学園の受験を担任に承知させるのに苦労した程度の成績だったから、光流より頭のいい友人はいくらでもいた。彼らとは何の問題もなく付き合えたから、光流は成績のよしあしが友情に関係があるとは思わなかったし、その程度で壊れる友情ならいらないと思っていた。
 しかし、高校で忍に出会い、意識が変わった。
 忍は非常に優秀だった。
 そして同時に、非常にひねくれてもいた。
 光流にとっては理解しがたい悪の理論で、生徒会選挙の不正を行った忍だった。そのやり方は人の弱みをつくえげつないもので、光流には到底、許すことができなかった。
 2人が衝突するのは避けられないことだった。
 その一連の事件の中で、思い知ったことがある。
 忍は、自分の認めない人間の言う言葉は聞かない。
 図書室で派手な喧嘩の末ようやく、友人という立場を得た感のある光流にとって、そんな忍との主席と補欠の差は無視することのできないものだった。
 単純に、忍には負けたくないという意地もある。
 それからというもの、勉強に真剣に取り組んだ。緑都は名だたる進学校なだけあって授業の質も高く、努力の分だけ光流は成績を上げた。
 そうして学年一ケタ台にまでのし上がった光流は、友情は学力ではないと思いつつも、あえて成績を落として二人の仲を確かめたいとは思わなかった。
 忍が今回の成績を知ったらどう思うだろう。
 この大事な時期に足踏みをしている光流を馬鹿にするだろうか。努力が足りないことを蔑むだろうか。
 それとも。
 …全くの無関心だろうか。
 それもあり得なくはないと光流は思った。
 途端、模試に失敗した落胆や、漠然とした入試への不安が掻き消えた。
 無性に腹が立つ。苛立ちに任せて、食事を終えた箸を乱暴にトレーの上に放った。
「何だよ光流、急に」
「…別に」
 今日はあの人を喰った顔は見たくない。寮に帰れば嫌でも顔を合わすのだが、せめてそれまでは見たくないと思った。
 突然の不機嫌に驚き顔のクラスメート達を促して、光流はいつ現れるかも知れない同居人を避けるために食堂を後にした。

 


「あれ、先輩一人ですか」
 心にわだかまる不愉快さのせいで全く周囲に注意が向いていなかったので、忍にはその呼びかけが、かなり唐突に感じられた。
 目の前で蓮川が、こころもち警戒に表情を硬くしながらこちらを見上げていた。
「一人じゃおかしいか?」
 いつも誰かとつるんでいると思われるのは心外だった。
 自然と思い浮かぶのは、派手な容姿の同居人の顔だった。
 学校にいる時までいつもくっついているほど、自分はあれに依存しているわけではない。
 元々の機嫌の悪さも重なって、返事に不穏な響きが混じってしまったようだ。後輩は敏感にその空気を察したらしかった。
「せ、先輩…な、何かあったんですか」
 顔色をさらに悪くし、あとずさる。
(…全く、普段から目をかけてやっているのにこの態度はなんだ)
 忍はますます気分を損ねた。
 そもそも蓮川は忍よりも、『誰か』に懐いている。気持は判らないでもない。明らかに人好きのする同居人のほうが、一緒にいて居心地がいいに決まっていた。
 そのことで自分が人として劣っているとは思わないし、あえて優しく振舞おうとはほんの僅かも思わない。
 しかし、その考えは不愉快に燻る胸に微かな痛みをもたらした。
 蓮川が不安げに聞いてくる。
「み、光流先輩と喧嘩でもしたんですか」
 後輩の口にした名が波紋のように痛みを広げていく。
 自分の内面をさらすようになり、周りの人間の忍への評価は”温厚篤実”から、”冷酷悪辣”に変わった。何も繕わない、それが自分の本質である。
 高校に入るまでは完全無欠の殻をまとって生きてきた。本質をさらして生きるのは、手塚家の次男として得策ではなかったからだ。
 その殻を、あの日、ぶち破られた。学校の図書室で、もう二度と殻の中へと逃げ帰れないような徹底的な方法で。
 そして今、蓮川は所在無げに視線を彷徨わせる破目に陥っている。
 あと一年で、やっかいな先輩が卒業してしまえばこの哀れな後輩の苦労も終わる。
 中身の質も知らずに殻を壊した男も、同じ思いでいるのかも知れない。
 忍は静かに息を吐く。
 それにつけても。
 躊躇なく地雷を踏めるというのは、蓮川の一種の才能かも知れないと思う。少なくとも、蓮川が自爆する脇で、忍もそれなりのダメージを受けた。
 それに相応しい礼をしたくなる。
 そして、わざと目前の蓮川から少しだけ視線を外した。
 肩越しに固定された視線に、蓮川が居心地悪げに身じろぐ。
「先輩…?」
「動くな。…害はない」
「な、何を見ているんです?ま、さかユー…」
「めずらしいものでもないさ」
「せっ、せっ、先輩!?」
 蓮川の緊張が高まったその時、春の強い風にあおられて、どこからともなく飛んできた一枚の紙切れが蓮川の後頭部に張り付いた。
 簡単に蓮川はキレた。
 意味不明の悲鳴を上げて、挨拶もなしに走り去る。体育祭で見せたものに勝るとも劣らない、素晴らしい速さだった。
 残された忍は、足元に落ちている紙切れを拾い上げた。
『ないものを、羨んではいけない』
 そこはかとない胸の痛みが腹立ちに消し飛んだ。
 それは学校にはびこる某宗教団体末端組織の印刷物だった。
 いつも穏やかな表情でいることを自分に課している忍だったが、今日は青筋の一つや二つ許してもいいのではないか。
 そう思う程度にまで、忍の機嫌は悪くなっていた。




 食堂から自分のクラスに戻る途中、光流はふと、A組の教室を覗き込んだ。
 食事を終えた生徒達が教室のあちらこちらで、思い思いに固まって談笑している。
 目を向けた机に、同居人の姿はなかった。
 食堂にもいなかった。ここに戻ってくる間も見かけなかった。
(いったいどこほっつき歩いてやがんだあいつ)
 食堂で感じた苛立ちを引き摺り、八つ当たりめいた悪感情を忍に抱く。
 忍は昼食後、自席に居ることが多かった。本を読むか、次の授業の予習をしているか、クラスメートと話し込むか、いずれにしろ、あまり席を離れなかった。
 それが、いない。
「どーした、光流?戻んねーの?」
「…いや…、先戻ってて」
 友人をやや上の空で先に帰すとA組の教室に入っていった。
 トイレにでも行ったのかも知れない。そうは思ったが、苛立ちと共になぜか落ち着かなさを感じていた。
 会いたくないと思っているのに我ながら不可解だった。
「よお、忍か?」
 入った途端、ドアの脇にいた一団に話しかけられる。
「ああ。…あいつ、どこ行ってんだ?」
「それがさー、センセに呼び出されてんだよ。今、職員室」
「は?何で」
「テストでとちったんだと。信じらんねーよなあ、あの忍が」
 いくら忍が優秀だといっても、間違いの一つや二つはあるに違いない。呼び出しも、普段の忍ができるだけに、失敗が目立つためだろうと光流は思った。
 自分の落ち込み具合に比べたら、たいしたことではないに決まっている。心配する必要はないし、する気もない。
 それに今は、気を使おうものなら『自分の心配でもしていろ』と言われかねない状況だった。
 成績を落とした光流が手を差し伸べたところで、忍は鼻で笑って振り払うだけだろう。
 想像しただけで癪に障る。
 目の前の机の脚を蹴る。それは教室の半ばにある忍の机だった。
 いつの間に移動したのだろうと思いながらも席を引き、どかりと座り込む。
 昼休みはあと少しで終わる。優等生の忍は始業前に必ず戻ってくる。
 座り込んだ光流は、集まってくる忍のクラスメート達に笑顔で応える。くだらない話で盛り上がる。苛立ちを押し隠して大声で笑った。
 時計が昼休み終了の2分前を指した。苛立ちは高まるばかりだ。無理をして笑っているのがよくないのかも知れなかった。しかし、まるで関係のないA組の生徒達にあたるようなマネはしたくなかった。ただひたすら、怒りの矛先はたった一人に向かっていく。
(…遅い。いつになったら帰ってくる気だ、あの野郎)
 その時、教室のドアが開いた。
 忍は光流に気付くと驚きに軽く目を見開き、ほんの一瞬だけ眩しそうに目を細めたかと思うといつもの冷めた視線を向けてくる。
 何を考えているのかなかなか掴めない、憎たらしい顔。
 だというのにその顔を見ただけで、苛立ちが消えていくのを光流は不思議な思いで感じていた。




 忍がA組の教室に戻ると、自分の席に人だかりができていた。
 何事かと思ってよく見ると、そこに図々しく座り込んでいる男がいる。
 笑いさざめく生徒達に囲まれて、何人もに同時に話しかけられているその姿は、近付きがたいものに感じられた。
 と、光流が忍を見た。
 ひどく真剣な目をしていた。目が合うと軽く顔を顰め、なぜか最後に微笑んだ。
 忍はそんな同居人に、どんな顔をしたらよいのか判らなかった。
 しかしその戸惑いも、クラスメートが忍に気付いたことでうやむやになる。
「手塚、お前大丈夫だったか!?」
 大げさに騒ぐクラスメートに思わず苦笑した。
「何で呼び出されたと思ってるんだ?たかがテストのことだよ」
「いや、だってさ、忍がテストで呼び出されるなんてよー」
 別のクラスメートがやはり驚いた様子で近付いてくる。そうしていつの間にか、今度は忍が人ごみに囲まれてしまった。
「よー、ついにヤキがまわったんじゃねえの?」
 ざわめきのなかで、その声は真っ直ぐに届いた。
「お前と一緒にするなよ、光流」
 忍は、すっかりこのクラスに馴染んでいる光流に優等生の完璧な笑顔を向ける。
「進級してから順位が一挙に二十番も落ちたそうだな」
 周りがどよめいた。人の波が再び光流に流れていく。
 光流が、押し寄せた制服の隙間からこちらを覗く。その目の物言いたげな色はすぐに制服の背に隠れた。
「補欠から奇跡のエリート街道まっしぐら伝説はもう終わってしまったのか!?」
「なんだそりゃ。いや、ちょっと気が緩んでよー」
 同じ言い訳だった。
 思わず笑いがこみ上げる。クラスメートの何人かが、忍を不思議そうに眺めていた。
 すると、人の背の向こうから、声が響く。
「何だよ、なーにがおかしいんだよ忍!くそーあとちょっとで追いつくところだったのに…」
 冗談めかした言葉に、冗談めかした口調。いつもの軽口と変わらない、意味のない揶揄だった。
 しかし、姿が見えない分誤魔化されずに、言葉に滲む苛立ちを感じて忍は訝しむ。
 思いついた理由に、息が詰まった。
 言葉通りに受け取るならば…。
 光流がそんなことを考えているとは、忍は思ったこともなかった。
 いつも高みから見下ろしているのは光流のほうで、追いつけないと思う苦しさも、自分だけの物だと信じて疑わなかった。
 あり得ない。
 忍はそう結論付けてざわめく心を押さえつけようとした。
 あり得ない、でも。
(そう簡単には並ばせない…俺がお前に唯一勝てるカードを手放す気はまだ、ない)
「もう三年だから、油断してはいけないそうだ。せいぜいがんばってのし上がってくるんだな」
「今に見てろよ、俺の後ろに手塚の名が並ぶことになるからよ!」
 光流は笑った。
 その前に、自分はさらに先を行く。追いついてきたら叩き落してやろう。
 まず何よりも、負けたくない。
 ただ…願うことが許されるのなら。
 その勝負をずっと、いつまでも…。
 切羽詰った感情に胸が一杯になりながらも、不思議なことに忍の機嫌は確実に良くなっていた。

FIN
2005.12.4


ナナイ様にいただいたキリリクを書いている途中でゴミ箱行きにしたネタに手入れしました。
最初は忍さんからのみの視点で書いていたのですが、よりぎすぎすした感じを狙って光流の視点も加えました。
なのに、あまりぎすぎすしてない…です。
そして何を書いているのか途中で判らなくなりました…。しょぼん。

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