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【スマイル】

 4月。
 春めいた空の下、片瀬高等学校の入学式が今、終わった。
 会場である体育館からようやく開放された小泉は、長い長い校長の言葉に眠気を感じながら校庭のすみを歩いていた。
 体育館が紅白の垂れ幕で覆われてしまう今日一日は、卓球部の練習もない。
 しかし、明日からは通常通りの練習の日々が戻ってくる。
 担当教諭兼コーチである小泉も気楽にはいられない。頭の中は、生徒達に課す練習メニューで占められていた。
 一部の選手に引っ張られる形でその名を卓球界に知らしめた片瀬高校ではあった。しかし部員それぞれが順調に成長しつつもあり、今年度からはメニューもそれに合わせて手を加えている。
 もっともそのメニューも、部が擁する二人のエースのうち一人にはまるで関係がない。
 エースの一角、星野 裕は、練習の殆どを藤堂大学の卓球部でおこなっていた。
 星野の実力は、高校生のレベルを遥かに超えている。高校での練習は彼にとっては生温い。
 藤堂大学は全国でもそこそこの実力校だ。そこでなら練習相手にも事欠かない。星野にはよい環境だった。
 片瀬高校の卓球部で星野の練習相手を務められるのは、たった一人しかいなかった。
「先生」
 呼び止められて、振り返る。
 細身の長身を、持て余すように前屈みにした少年が立っていた。
 片瀬高校のもう一人のエース。星野に唯一比肩する、月本 誠。
 小泉は微かな予兆に軋む胸を誤魔化すように、笑った。
「HELLO、Mr.月本。…三年生はホームルームじゃないのか?」
 月本もまた、目線を地面に落としたまま微かに笑った。
 その笑顔が小泉の胸の痛みを更に誘う。
 以前は笑うことなどまるでなかった月本だった。あだ名は“スマイル”。笑わないからだと幼馴染の星野は言った。子供らしい皮肉なあだ名だ。
 しかし今や“スマイル”の笑顔は珍しいものではない。
 月本は、変わった。去年の夏からだ。あの時から、自然と彼の表情も緩むようになった。
 春の風に校庭から巻き上げられた砂埃が、二人の立つ場所に押し寄せる。目をつぶり、やり過ごしていると静かな声が耳に届いた。
「先生、僕は卓球部を辞めます」
 小泉は、目を開けることができなかった。
 予感は現実となった。
 いつ来るか、いつ来るかと恐れていたその時が、ついに来たのだ。
 小泉はゆっくりと息を吐き、そして目を開けた。




 去年の夏に起こった事を、小泉は一生忘れることができないだろう。
 梅雨が明けてすぐに開催されたインターハイ予選。
 現役時代に経験した悔恨の日々が、膿んで直りきらない傷口のようなものだとして、それは例えるなら、鮮やかに滑らかに、いつまでも真新しいまま決して塞がらない、傷だ。
 歓声。
 シューズのきしる音。
 ユニフォームが風を孕む。
 ラケットが空を切る。
 白い弾がテーブルを跳ねる。
 滝のような汗。
 眼鏡の底の眼光。
 心身ともに最高のコンディションで試合に臨んだ月本。
 小泉の期待に違わず、相手を駆逐していく月本。
 その非情さは一高校生としては憂うべきものだが、競技者にとっては絶対必要不可欠なものだ。
 心の通じる選手をコートへと送り出す、高揚感。
 共に闘っているという連帯感。
 そして。
 星野 裕と月本 誠の決勝戦。
 あまりにも鮮やかな二人の卓球。
 余人のつけいる隙などない、二人だけの世界。
 月本は微笑んだ。
 月本は泣いていた。
 サイボーグとまで揶揄された非情さは欠片もなかった。
 その試合、負けた月本は表彰台の2位の高みから、心からの笑顔を見せた。
 心は通じている…はずだった。
 その時、小泉の心に確かに、今日という日の予感が生まれたのだ。




 差し伸べる全ての救いの手がその用を足すことなど有り得ない。
 その中から本当に救いとなるものを探し出し、掴み取るのは他ならない彼自身。
 救われる者こそが、選ぶのだ。おのれの救世主を。




 月本 誠の闘いは終わった。
 月本の中にあった怯えや、自分への嫌悪…小泉が利用さえしたそこから生まれる闘争心も全て、ヒーローが持ち去ってしまった。
 もはや目の前の少年は、才能に溢れ、鋭くも脆い心をもった卓球選手ではない。
 ただの大人だ。
 強い心をもった、ただの大人なのだ。
 忸怩たる想いが湧き上がる。奪われたのだと感じる。世界は確かにそこにあった。二人で戦っていくことができたはずだった。故障などさせない。完璧にコントロールして長い競技者生活を戦い抜かせる自信があった。
 だが、こうも思う。
 月本 誠が自分のものであったことなど、例え一瞬でもあっただろうか、と。
 最初から月本にはヒーローしか見えていなかった。
 月本は助けを欲していたのだ。苦痛から開放できるただ一人の手を。
 月本は闘いなどまるで望んでいなかった。
 彼が望むものはただ一つ。
 心から笑える平凡な日々。
 月本にとっては、卓球の才能など意味のないものだったのかもしれない。
 小泉が羽をもがれてのたうちまわったのとは違う。
 月本は自ら望み、その羽を捨てた。
「先生」
 呼び声は、以前のような機械的な響きはなく、穏やかだった。
 口元にはまだ小さくはあるが、笑みがあった。
 小泉は、背を向けた。
 目の端に浮かぶものは、年のせいだと思った。
「…戻ろう、Mr.月本」
「はい」
 先に歩き始めた小泉に、月本の長身が並ぶ。
 はじめての、身近な距離だった。
(コーチ業は終わったはずなのにな…いや)
 心に浮かんだそれを、認めたくはなかった。それを認めるのはあまりにも、痛い。
 それは奪われた過去を取り戻す機会を、そして再び世界を目指す狂おしいほどの夢を、全て綺麗に清算する言葉だ。
(…コーチではなくなったから、か…)
 小泉は微かに笑った。
 隣を歩く月本にも気付かれないほどの、小さな自嘲だった。
(人の才能に乗っかって見る夢など、所詮、泡沫に過ぎない…)
 ここにいるのは、もはやコーチと選手ではない。
 では、今の月本 誠は今の小泉 丈にとって何であるのか?
 なぜ、月本 誠はおとなしく老教諭の後をついてくる?
 教師と生徒にしてはあまりにもお互いの内面に触れすぎた。
 そして友人と言うにはあまりにも遠い。
 その関係を手探りで見つけていくことしか、今の小泉にはすることもない。
「あー、Mr.つきも…いや、…誠」
「…はい?」
 唐突に変えた呼び名に訝しい表情になりながらも、月本は小泉の言葉を待っている。
「今日の夜…うちでメシでも食っていくか?」
 以前、誘ったときには断られたことを思い出しながらも、尋ねた。
 月本は、答えた。
「いいですよ」
 小泉は少年に目を向ける。
 満面の笑顔が小泉を見下ろしていた。




 去年の夏…小泉に刻みこまれた傷は当分消えそうもない。

FIN
2006.1.15


『ピンポン』にはまって、一番に妄想したお話が小泉ネタとは…とほほ。
乙女属性マイナス1000ポイントですよ。
あれだけ執着していた小泉が、スマイルを手放すのは相当の葛藤を乗り越えねばならなかっただろうとかなり感情移入してしまったので…。
むしろ、他のコーチに鞍替えされた方が、小泉にとっては楽だったのではなかろうか…。
ところで小泉先生ってば英語の先生なんですよね?
あの通常会話に混じる英語は何なんだろう。
怪しい。

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