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【国境線越えて】

飛行機のシートに腰を下ろし、離陸を待つ時間には一種独特の感慨がある。
客室乗務員が座席間を飛び回っている。荷物が所定の場所にきちんとしまわれているか、乗客がシートベルトを着用しているかと確認するためだ。そのせわしない雰囲気で落ち着かないせいもある。
もっとも、海外に慣れた人間には縁のない感傷だろう。
自分はそこまで行き慣れているわけではなかった。
いや、むしろ世の平均から比べれば、国外へと出る機会の少ない方だと言える。自分の支払いでの海外旅行はこれが始めてなのだ。
隣から、光流の期待をこめた呟きが聞こえてきた。
「なー忍。まだ飛ばねーのかよ?」
シートベルトで体を押さえつけられているにもかかわらず、落ち着きなく体を動かしている。窓の外が気になって仕方がないらしく、短い間に何度もその小さな開口に額を押し付けていた。
その向こうに広がる空港は、夕焼けでわずかに赤く染まっている。
「いつかは飛ぶだろ」
「結構待たせるんだな」
「飛んだ後の方が遥かに長いぞ」
その時、ジェットエンジンの唸りが高くなった。客室乗務員が、専用のシートに着く。
「お、やっと飛ぶのかー!」
「…静かにしろよ、みっともない」
聞く耳を持たないで窓に張り付く背中を、軽く小突いた。


去年の12月のことだ。
「なー、俺ボーナスでたぜ」
唐突に、仕事から戻った光流がそう言った。
2人の共同生活も二桁の年数を数えるまでになっていた。
お互いに社会人となり、取り巻く環境は著しく変わり、忙しさに追われる毎日だ。
驚くことに、それでも同居は続いている。
「おい、聞ーてんのかよ?」
ソファに腰掛けて新聞を読み続けていると、肩に手をかけ耳元で喚き立てる。友人ではありえないその距離に慣れてしまったことと同じくらい、不思議なことだった。
「この不景気にそれはめでたいな」
とくに感想もないので適当に応えた。
「何だよ、そんだけかよ」
光流は拗ねたようだった。それでも探るように聞いてくる。
「お前はどう?」
「当然支給された」
「当然て何。当然て」
「事実を端的に述べただけだ」
「へー、そーかよ…」
文句が続くかと思ったのに、光流は黙り込む。
不審に感じて目を向けると、急に眦を吊り上げて真っ直ぐにこちらを睨みつけた。
「なんだ、腹を立てたのか。この程度のことで」
「違う!」
そう声を上げたかと思うと、一転して所在無げに視線を泳がせた。
「…なにが言いたいんだ、光流」
訳の判らない態度の光流に、普段は押し隠している感情が蘇る。
自分の中で、いつまでも消えることのない、将来への不安。いつかこの生活が終わることへの微かな恐怖。
何か決定的な言葉が、今こそもたらされるのではないか。
動揺していること自体に苛立って不機嫌を隠さずにいると、光流が言ったのだ。
「旅行、行かねえ?」


それからの光流は似合わないこまめさで旅行のパンフレットを集め、行き場所を決めた。
半年後の夏休みは日を合わせて取り、無理をしたため普段より忙しくなった仕事の合間に準備をし、今、二人並んで機内食に向かっている。
「いっただっきまーす」
鉄の胃袋がトレーの上のものを信じられない勢いで消化していく。雲の上でも食欲は衰えないのだなと、当たり前といえば当たり前の事を考えながらその様子を見ていると、光流がこちらを振り向いた。
「なに。食べないの?」
パンを齧ったくらいで手を止めていたのに気付き、そう聞いてくる。
「体を動かすこともないのに栄養ばかり詰め込んでもしょうがないだろう」
「人間は呼吸にもカロリーを消費するんだぜ…ひょっとしてお前、飛行機苦手とか?」
「そういう訳じゃない」
旅行に誘ったのは光流だったから、気になるのだろうか。少し気遣うような声になる。
「…ただ、海外旅行にはあまりいい思い出がなくてな」
光流のその様子に誘われて、言うつもりのなかった言葉が漏れた。
中学生までは、家族の年中行事に海外旅行が組み込まれていた。
父の主導で催されるそれは、不参加などありえないものだった。
飛行機の中で兄の旭は言葉少なだった。シートに押し込められた息苦しさを忘れようとして、必死に眠ろうとし、失敗していたようだ。
姉の渚は苛立っていた。まあ彼女はいつもそうだったから、単に普段通りだったのかも知れないが。
両親は黙々と行程をこなす。余裕のある家庭に相応しい、ただ無事に帰り着くための旅行。
その後兄の出奔などがあり、家族旅行もいつの間にか行かないようになったのだが。
光流は不審そうにこちらを窺っていたが、それ以上は踏み込んでこなかった。
そして、唐突に笑みを浮かべる。あまりの変化に鼻白んでいると。
「せっかく“あれ”なんだからさー。もっと楽しそうにしろよ」
「“あれ”?」
全く思い当ることがなく、聞き返す。光流の笑みが深くなった。
「“あれ”っつったら“あれ”だよ」
「…なんだ」
聞けばきっと後悔するに違いない。
光流の意味ありげな笑みにそうは思ったが、とっさに聞いてしまった。
「新・婚・旅・行」
がちゃんと食器のなる音がした。
通路側の隣席に座っていた、出張中のサラリーマンらしきスーツ姿の男が立てた音だ。
隣のサラリーマン程ではないだろうが、2音ずつ区切る話し方に少なからず動揺する。
…やはり、聞くんじゃなかった。
手の出しやすい位置に光流の側頭部がある。そこを掴んで旅客機特有の小さな窓に叩きつけたくなる。
いくら光流の面の皮が厚いからといって、飛行機の気密が破壊されることはないだろう。大丈夫なのだ。しかし。
そんな態度は隣のサラリーマンの疑惑に裏打ちを与えるようなものだ。
「なんだよなー、照れるなよ」
こちらの思惑を知ってか知らずか、光流は呑気な顔でにやけている。
…ジャンボジェットの扉は手動で開くんだよな。
そんなことを、ほんの少しだけ考えた。


客室乗務員が食器を下げ、飲み物のサービスが終わると機内の照明が落とされた。
次に明りがつくのは現地時間の朝になる。ここで寝ておかないと到着してから辛い思いをすることになる。
通路だけがほのかに照らされている中、乗客が思い思いに休む準備を始めていた。
隣のサラリーマンもまた、毛布を頭まで被り、身を硬くしてわざとらしく寝息を立てている。
だというのに、光流は不満げなため息を漏らした。
「眠れそうにねーんだけど」
まったく、子供じゃあるまいし。
「好きに過ごせばいいだろう。退屈しのぎならいくらでもあるじゃないか」
そういって機内装備のイヤホンを押し付けると、周りに習って毛布を肩まで引き上げ目を閉じた。
「なんだよなーちぇー」
恨み言をつぶやきながら、しばらくごそごそと動いていた光流だったが、やがて大人しくなる。
これで落ち着いて眠れると安堵した。目的地に着いたとたん時差ぼけで調子を崩したりはしたくない。
しかし、それも束の間、再び光流は活動を再開した。
薄目に様子を窺うと、窓のシャッターを少し開けて外を覗いている。
そして、息を呑む音。
「すっげー…。忍、見てみろよ!」
「静かにしろって」
そう言いつつも体を起こし、光流の肩越しに、窓に顔を寄せる。
何に光流が興奮しているのかは、見る前から判っていた。
思った通り、窓の外にはすぐ手の届きそうなところに、星空があった。
見知った星座も地上で見るよりは、遥かに自己主張をしている。
「ずいぶん近くに見えるんだなあ」
ただでさえ大きな目を見開いて見入っている姿に、何かが込み上げる。
しかしそれを光流自身には悟らせたくなくて、口角を無理に引き上げた。
「お客様。消灯後はこちらを閉めておかなくてはいけないのですが」
「…あとちょっと」
こちらを向いて一瞬にっと笑い、すぐに窓に目を戻す。


『…こうすると、もっとよく見えるんだけどな』
ふと、自信のなさそうな声が蘇った。
たしか、あれは旭が大学に入学したばかりの頃。
旭は始めたばかりの写真にのめりこんでいて、家族旅行も写真の撮影会と重なるから行きたくない、と母に告げていた。
しかし、旭が父に逆らえる訳もなく、それどころか父に意思表示さえすることもなく、諾々とついてきた。
その兄が、小さく開けたシャッターの隙間から外を覗く忍に気付き、控えめないつもの態度で教えてくれたのは。


「忍?」
「そっちもてよ」
毛布の端を、わけも判らずに持たされて怪訝そうな光流に、笑う。
「こうすると、もっとよく見えるんだ」
自分があの兄と同じセリフを口にしている。そのことにもおかしくなり、さらに笑いが込み上げる。
「おーい、忍?」
「いいから、そこをもっと開けるんだ」
言われるまま、窓のシャッターを引き上げて外を見るその目が再び見開かれた。
「うわ…」
光流は絶句する。
毛布で窓を覆い、僅かな機内の明りを遮断してから見る窓の外の光景は、一変していた。
今まで見えなかった小さな星々までもが強烈に輝き、夜闇を食いつくさんばかりにひしめき合っている。
その生々しい光はまるで、空に生身で浮いているかのような錯覚をもたらした。


『な、すごいだろ?』


光流は食い入るように窓の外を見つめている。
あまりにも真摯な目で。
あの時の俺も、こんな顔をしていたのだろうか。
そして兄は。旭もこんな気持で俺のことを見ていたのだろうか。


「…おい、こっちも自分で持てよ」
毛布のもう片方の端を強引に握らせる。
落ち着かなくなり、窓を覆う毛布から体を出す。自分のシートに身を沈め、無理矢理に目を閉じた。
その後意外と早く、窓のシャッターを閉める音がした。
もう飽きたのか、せっかくいいものを見せてやったのに。
少し残念に思っていると、どん、と結構な勢いで肩に重い塊が落ちてきた。
驚いて目を開く。
「何をやって…。おい、寄りかかるなよ…!」
「イーじゃんイーじゃん新婚旅行なんだしおやすみー」
目も開けずにそう言って、後は満足そうに毛布にくるまってしまった。
どうしたものかと思いつつふと顔をあげると、通路の端からこちらを凝視している客室乗務員と目が合った。
慌てて向こうが目を逸らす。
「…」
なんとなく。
なんとなく、だが、この座席の周囲の空気が、緊張を孕んでいる気がする。
隣のサラリーマンも不自然なほど動かない。
…まったく。
光流はもう寝息を立て始めていた。
客室乗務員も隣のサラリーマンも、そして息を殺してこちらの気配を探っているらしい周辺の乗客たちとも、恐らく二度と会うことはないだろう。
そう冷静に考えて、俺はすべてを受け流すことにした。


ま、新婚旅行なんだし、な。

FIN
2005.9.3


掲示板短期連載から掬いあげたもの第3弾。
いちゃいちゃしてほしくていちゃいちゃさせました。
飛行機で隣のカップルが、毛布かぶって、
「星がきれいだよ…」
なんてやってたら殺意を抱くものかもしれませんが、いちおうそんな感じをめざしました。
本当はもっとざあああああっとひくくらいいちゃつかせたい。今後がんばります。

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