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【謹賀新年】
「あけましておめでとう」
普段と変わらない涼しい声で、電話の相手はそう言った。
正月明けて三日。元日は受験目前の景気付けに緑都の同級生とバカ騒ぎをした。二日は蓮川を誘って初詣に行った。今日は今日で夕方から中学時代の友達と集まりがある。その合間の気だるい午後を、のんびりと過ごしていた時のことだった。
「おー、アケマシテオメデトウゴザイマス・・・何だ、どーした?」
光流は、用がなければ決して電話してこないだろう相手に尋ねた。
「悪いんだが、寮が開くまで泊めてもらえないか?」
用件自体はそれほど特異なものではなかった。笑いながらすぐに答える。
「おう、かまわねえよ。なんだ、家、おん出されたのか?」
「実は、そうなんだ」
忍の口調は流れるようで、まるでお決まりの時候の挨拶を述べているかのようだ。
光流は目を瞬かせる。
「…は?」
「もう、駅に来ている。これから特急に乗って東京に向かうから、三時間ほどでそちらに着くだろう。都合はどうだ?」
「だ、大丈夫だけどよ。…一体、何が…」
「会ったら話すよ。まあ、大したことじゃない…ああ、電車の時間だ。それじゃ、後で」
「あ、おい!」
電話は一方的に切れた。
光流には、忍が家人と揉める理由に一つ思い当たることがあった。
ひょっとして、卒業後の同居のことだろうか。
忍の祖母に自分の印象が良くないことは、姉の渚に聞いて知っている。会ったこともないのに理不尽だとは思うが、そういう世界もあるのだと、忍に出会ったことで光流は知った。
(…確かに、俺はどこの馬の骨とも知れないけれどよ…)
すっかり心を乱された光流に、三時間は余りにも長く感じられた。
「ふーん、忍さん泊まりに来るんだ」
コタツを挟んで向かいに座る正十が含みありげな口調で言う。
家を出ると告げてからしばらくは口を利いて貰えなかった。最近ようやく、必要事項と嫌味だけは口にするようになった。それでも進展したもんだと、光流は自分を慰める。
「ああ、五日までな」
「それで一緒に寮に戻る訳だ。…仲いいよなあ。卒業しても一緒に住む位だもんなあ」
光流は正十から目を逸らしつつ、卓の上のカゴからみかんを取った。テレビからは正月特有のお笑い番組が垂れ流されているが、場を和やかにする効果など微塵もない。
もそもそとみかんの皮を剥き、一房口に含む。
この血の繋がらない弟に何と言えばいいのだろうかと思う。
家族に大事に思われることはもちろん嬉しい。しかし、庇護を受けたいとは思わないのだ。…血が繋がらないのなら、なおのこと。
そんなことを言おうものなら正十が烈火のごとく怒り出すのは目に見えている。その怒りは至極正論で、そのことが光流を悩ませる。
『光流は、家族なんだぞ!なんでそんな風に遠慮するんだ!』
その通りだ。自分は池田家の人間で、家族は今いる彼ら以外には考えられない。
それでも、どうしても…。
結局いつも堂々巡りだ。光流はみかんを次々と口に放り込む。
この弟が、過ぎるくらいに自分を想ってくれていることは判っている。だからこそ、自分が家を出ることには納得して貰いたい。
しかし、何をどう説明すればよいのだろうか。そのことを考えるだけで捉えどころもなく思考は拡散してしまい、光流は何の答えも得られずにいた。
「あーあ、俺も緑都に入学して、寮に入りたかったなー」
きつい嫌味の中に羨望の色を感じ、ふと目を上げる。
正十のジト目と視線がかち合った。何となく、愛想笑いを浮かべてしまう。しかし、正十の険しい表情は全く変わらなかった。
(…はあ)
光流は心の中でため息をついた。
その時、玄関の呼び鈴が鳴った。
「!」
光流はコタツを飛び出す。
「何だよ!寒いだろ!!」
正十の文句を背に、玄関のタタキに飛び降りる。
格子戸を勢いよく開け放つと、そこにはいつもの済ました顔にやや驚きの色を浮かべた同居人が立っていた。
「何だ、びっくりするじゃないか」
「何があったんだよ!」
「…今、ここで話せと言うのか?」
面倒くさそうに横を向き、ため息をつく。
光流の視線がその横顔に釘付けになった。頬骨に沿って、微かに赤い筋が流れている。
背中がひやりとした。
「お前…殴られたのか?」
「まだ、痕が残っているのか」
そう言うと、忍は軽く笑った。
「…親父さんかよ?」
「よー、光流!明けましてオメデトサン!!」
忍の返事は聞こえなかった。
突然、場に割り込んだ賑やかな一団は、光流の中学時代の悪友たちだった。
(あ…忘れてた)
今日、夕方から皆で出かける約束があったのだ。光流を迎えに来ると約束した、今はまさにその時間だった。
しかし、頬を赤くした同居人を置いていけるわけがない。誘いを断るのは苦手な光流だが、ためらう事はなかった。
「あのよ、今日のことなんだけど…」
「行ってこいよ、光流」
いつの間にか正十が玄関に立っていた。上目遣いに光流を睨む。
「正…いや、しかし…」
「俺じゃ忍さんの相手させられないっつーのかよ!」
させたくない。
…とは言えない光流だった。
「やあ、正くん。あけましておめでとう。正月早々済まないけど、今年もお世話になります」
眉尻を吊り上げている正十に、こともなげに忍は笑顔を向ける。
すると正十の態度が激変した。
「あ、あけましておめでとうございます…あ、どうぞ、上がって下さい」
照れたような笑顔を浮かべ、忍を家に導く。
「お、おい忍…」
「行ってこいよ。俺は構わない」
あっさりと背を向ける忍の方に一歩足を踏み出しかける。しかし、目の前に正十が立ち塞がった。
「さっさと行け、光流。友達を待たせるなよな…それじゃあ、皆さん、兄をよろしく!!」
異様に引きつった笑いを浮かべて正十はそう言うと、光流の目の前でぴしゃりと格子戸を閉めた。錠の閉まる音が無情に響く。
「…相変わらず、兄激ラブな奴だなー」
「今度は何で拗ねてるんだ?」
光流の家の事情も、正十のブラコン振りも知り尽くしている古い友人たちが口々に言う。
光流は今度こそ、大げさにため息をついた。
あれは、十一月の終わりのこと。その日は、冷たい雨が降っていた。
その時、呼び鈴はどうしても押せなかった。
格子戸の引き手を持つ手が震えた。
信じられなかった。弟が事故に巻き込まれるなんて。
母が、玄関戸の開いた音に反応して飛び出てくる。
「光流!あんた…」
緊張した母の顔に、光流は胃の辺りが傷むのを感じた。
「テレビを見たんだ。…正は?」
「まだ連絡がなくて…。何、あんた、随分濡れてるじゃないの!早く上がって着替えなさい!」
その時、電話が鳴った。
母が廊下を走り出す。一泊遅れて光流も後を追った。
「もしもし!」
母がたどり着く前に、すでに帰宅していた父が受話器を取る。祖父も、コタツから腰を浮かせている。皆、光流が今まで見たことのないような緊迫した表情で、受話器から流れる音に集中している。
「正か!大丈夫なのか!!…そうか」
父の顔が、緩んだ。
それを見た母が安堵のため息をつく。祖父もコタツに座りなおした。
「ほら、お母さん」
父に受話器を渡された母が勢い込んで話し出す。
「怪我は!…そう、全然ないのね。全くもう、びっくりしたわよ…」
気丈な母が、微かに涙を浮かべていた。
「…おじいちゃん、変わる?」
「俺ぁいいよ。光流、でたらどうだ」
「ほら、光流、正だよ」
母に受話器を突きつけられた。光流は受話器を耳に当てる。
「正?」
『光流まで帰ってきちゃったのかあ。ホンとにさ、大したことなかったんだよ』
元気そうな声。肺から、長い息が漏れた。
『心配かけちゃったから、土産は奮発するよ。俺が帰る日、お前も家に戻って来いよ』
「…じゃ、母ちゃんに変わるぞ」
光流は受話器を母に返した。
「…そう、旅行は中止にはならないのね。わかった。気をつけて楽しんでおいで」
受話器が置かれた。
「もーいやねえ!びっくりしちゃった!…光流もこんな夜に、悪かったねえ」
家の中に、先程とは全く違う暖かい空気が満ちる。光流は母に笑いかけた。
「ま、無事だったからいいよ…今、何時?」
「ん?ああ、もう八時か」
父が腕時計を見て答えた。
「じゃ、俺、寮に戻るよ」
「何よ、来たばっかりじゃない!」
噛みつかんばかりの母に、苦笑いする。
「外泊届けだしてねーもん」
「こんな時だし、電話すれば済むでしょ?」
確かにそれはそうなのだが。
「いんや、戻るわ。今からなら門限もぎりぎり間に合いそうだし」
「もう、しょうがないね」
「それじゃ、父ちゃん、じいちゃん、またな」
「おう、気ぃつけろよ」
「光流、今度はいつ帰ってくる?」
父の問いに、光流は一瞬固まった。
俺が帰る日、お前も家に戻って来いよ…正十はそう言ったが。
「次は年末だよ。俺もいろいろあってさ」
「どーせ勉強以外のことだろうに勿体つけて。もっとまめに戻っておいでよ!」
「ははっ!人気者は辛いね…そんじゃ!」
居心地のよい居間を半ば走るように出る。靴を履くのもそこそこに玄関を飛び出す。傘を差したのは雨が一通り体を濡らした後だった。
(だめだ。今日はだめだ)
正十が無事だと判った今も、事故の報を受けた時の衝撃は、完全には去っていなかった。その隙をついて制御できない思考が暴れだす。
なあ、母ちゃん。俺が帰ってきた時、正じゃなくてがっかりした?
悪かったねなんて、普通息子に言うものかな。
父ちゃん、本当に俺が帰る日なんて気になるのか?
本当は、帰らない日を知りたかったんじゃないか。
じいちゃん、事故ったのが正じゃなければ、とか思わなかった?
そうすれば、こんなに心配しなくても良かったって、思わなかった?
(…あり得ない。そんなことを思う人たちじゃないのはわかっている、それなのに)
自分の考えに吐き気がした。
駅が見えたところで光流の足は自然に止まった。雑踏の中、立ち尽くす光流を人々が追い越していく。
(…ねえ、俺、本当に家族でいていいんですか?)
いつの間にか、頬に手を当てていた。
同居人に、よりにもよって辞書で殴られた所。痛みはすでに全く感じなかった。
もっと強く殴ってくれたら…もっと痛んでくれたらよかったのだ。そうすれば、少しはこの吐き気も気にならなかった。
(俺は、弱い。どうしようもなく、弱い…)
「光流?おーい、みーつーるっ!!もう酔っちまったのかあ!?」
気付くと、友人が目の前で手を振っていた。
チューハイのグラスは殆ど空で、溶けかけた氷が惨めに浮いている。
「今、何時だ…」
腕時計に目を走らせる。友人らにこの店に連れ込まれてから、一時間が過ぎていた。
「に、してもさあ」
友人の一人が話しかけてくる。何が『にしても』なんだろう?会話が全く繋がらなかった。それでも、グラスに残った味の薄い液体を喉に流し込みながら耳を傾ける。
「さっきお前んちに来てた人、家庭教師?」
光流は飲んでいたものを噴き出した。
「だっ、誰が、誰の!?」
「『さっき来てた人』が、『受験生の光流君』の」
「何言ってんだ!あいつは俺らとタメだよ。寮の同室の奴!」
「へー」
いつの間にか、友人たちが光流に注目していた。
「大学生かと思った。すげえ落ち着いてるよな」
「さっすが緑都だよなー、レベル違うぜ!」
「…誤解だ」
光流は憮然と切り返す。
「あいつは幼稚な悪戯大好きの超お子様だ。あの外見は中身を殆ど反映していない」
周りの視線が訝しげなものになる。
「なーに言ってんだよ、そんな人にゃ全然見えなかったぞ」
「悪戯好きの超お子様って自分のことじゃん」
「友達に嫉妬するのはよくないぞ」
違うんだ!!
…と、いくら言っても聞き入れて貰えないのは経験上判っていた。
忍の本性を多少なりとも知っているのは寮生と緑都学園関係者のみ。
正十にも口を酸っぱくして忍の人となりを伝えてはいたのだが、馬の耳に念仏だった。何を言っても頭から信用しないのだ。今日も会う前は文句たらたらだったのに、忍に笑いかけられれば有頂天になってしまう。
誰もが羨む、見た目完璧の、超優等生。
その笑顔の下で何を考えているか、一緒にいてさえ見失うことが多い。
頬に残る一筋の赤い痕が、鮮明に脳裏に浮かんだ。光流に過去の苦い記憶を思い出させたあの痕は、忍に何をもたらしたのか。
『行ってこいよ、俺は構わない』
…本当に?
光流は立ち上がった。
「悪ぃ、俺、帰るわ」
友人たちが口々に不平を漏らす中を、光流は走り出た。
辺りはすっかり暗くなっていた。街灯の明りが走る光流の息を白く映し出す。
実家に辿り着く。いつもの通り、格子戸に手をかけて思い切り開け放とうとする。
家の中から賑やかな笑い声が聞こえてきた。
光流は手を止める。
両親と、祖父の笑い声。いつもより1オクターブ高い正十の声。その中に、忍の笑う声が混じる。
心配することもなかったか。
安心したものの、なぜか手は思うように動かなかった。
ようやく光流は静かに格子戸を開けた。声も掛けずに框を上がる。疚しさを感じつつも足音をしのばせ、居間を覗き見た。
コタツに一つ座卓を足して、五人が食事を囲んでいる。皆楽しそうに笑い、箸を口に運んでいる。忍でさえ、普段の作り笑いではない穏やかな笑みを浮かべている。
暖かい光景。家族と…一人の他人の。
突然息が苦しくなった。
「あら、光流、帰ってたの!何よ、声も掛けないで」
母の声に、われに返る。
「何だよ、随分早いじゃんか…忍さんがいると」
正十が早速皮肉を言う。その横で、忍が振り返った。
「光流、ご飯は?まだお鍋の具、たくさんあるよ」
母が台所に立とうとするのを手で制する。光流は笑った。
「いやーもう腹一杯でさ…ちょっと部屋で寝てくら。じゃな、忍」
その場に背を向ける。途端、浮かべた笑みは霧散した。
(作り笑いは忍の専売特許ってわけじゃない…)
酒は大して飲まず、食事も殆ど口にしていないのに、体は重い。二階の自分の部屋へ行くのさえ億劫だった。
部屋に入ると明りも暖房もつけず、ベッドに倒れこむ。
(…そう、うちの家族は実際すごいぜ。他人と身内を区別しない)
だから。
『他人の席』に当てはまるのは、自分じゃなくても構わないんじゃないか。
こんな考えは罰当たりだと判っている。ただ門前に捨てられていたというそれだけの縁で、ここまで育ててくれた人々に対して。しかも、ただ衣食住を満たされていただけではない。十分に愛されてきた。
十分なのに、更に求めてしまう。…どうしたら、この欲望は消えるのだろう。
家を出なければならない。早く出なければならない。一緒にいればいるほど、自分はどんどん弱くなる。
光流は唇を噛み締める。そうしなければ苛立ちに任せて意味のないことを叫んでしまいそうだった。
必死で気を紛らわせようと色々なことを考える。
(だいたい、忍があんな傷を作ってくるからいけないんだよな)
その傷の原因は自分かもしれない、という考えは一旦脇に置いて、責任を同居人に負わせてみる。
(頬の傷は、色々なことを思い出させるんだ…)
正十の事故。渚のしでかした誘拐事件。蓮川に殴られたこと。いいことも悪いこともある。そして、一年の時の大喧嘩。あの時光流に殴り飛ばされた忍の頬には、痛々しい傷がしばらく残っていた。
(ひょっとして、あの時の仕返しに忍が呪いをかけてたりして…。頬の傷というキーワードで嫌な思い出が蘇るとか、そんな)
非常識でくだらない想像は、ほんの少し光流の気持を浮上させた。
そこへ、部屋のドアがノックされた。
「入ってもいいか」
「おー、いーぞ」
身を起こすと同時に忍がドアを開けた。
電気が消えていることを気にする様子もなく、光流の勉強机に向かうと手にした盆を置く。薄闇の中、ほうじ茶の匂いが満ちた。
「お茶を入れてもらった」
湯飲みを取り、ベッドに胡坐をかいている光流のところまでやってくる。
「おー、めっずらしい、取ってくれたの。サンキュー」
湯飲みを受け取ろうとした光流に、冷たい声が浴びせかけられる。
「ばかが」
「おごおっ!?」
唐突に繰り出されたかなり本気の拳が、光流の頭頂に炸裂した。
そして忍は悶絶する光流に無理やり熱い湯飲みを持たせる。震える手から熱い茶が零れた。
「あ…あちーじゃねーか!なんつーことすんだよ、この外道!くそー何でみんなこんなのに騙されんだよ…」
忍はいつもの涼しい顔で光流を見下ろしていた。そして、告げる。
「騙されてくれたのは正くんだけだぞ」
忍自身のことではない、とはすぐに気付いた。
光流は言葉を呑む。
「お前のお母さんも、お父さんも、おじいさんだって騙されなかった。何も言わないがな」
頭の痛みのためでなく、微かに震えだす光流の手から忍は湯飲みを取り上げる。
「ところで…俺の家出の理由は聞かなくてもいいのかな」
「えっ…!?」
唐突に話題を変えられ、混乱した光流は咄嗟についていけなかった。
「何だ。もう興味ないのか。随分いい友達だな」
「いや!興味ある!あるけど…」
「知りたくないのなら、無理には言わないよ」
「いや…教えてクダサイ…」
忍は湯飲みを再び光流に戻す。自分の湯飲みを手にすると、窓の腰壁部分を背に、腰を下ろした。
窓から漏れる明りを背にした忍の表情は判然としなかった。
「確かに、俺も不用意だった」
忍はそう切り出した。
「まさか、父にあそこまで反対されるとは予想できなかったんだ」
「…同居のことか?」
恐る恐る問う。
「違う」
忍は薄く笑った。
「東京に残ること自体を反対されたんだ」
「え、何で?」
光流には理解できなかった。確実に日本で最高の大学に入れると言われている息子を許さない親。しかも深窓の御令嬢ならいざ知らず、こんなふてぶてしいドラ息子を。
「…今、ドラ息子がどうとか思ったか?」
「いや、とんでもない…で、何が駄目なんだ」
「兄が家に戻ったのは話しただろう?」
「ああ」
家出をしていた忍の兄、旭が戻り、父親に土下座して勘当を解かれた話は聞いていた。
「でも、それが何で…」
「兄はめでたく跡継ぎに返り咲き、俺はただの次男坊に戻ったわけだが…」
突然、忍は堪え切れないように笑い始める。
「兄弟三人、父の前に正座させられてな、『総領より弟の学歴が高いのは家にとって都合が悪いからお前は地元に残れ』とはっきり…はっきり言われたんだ」
なんだ、それ?
光流は愕然とした。
しかし忍は、笑いが止まらない。
「忍…」
「お、俺は今まで父がこんなに面白いことを言える人だとは思っていなかったから…兄は真っ青になってしまうし…話に取り残されて姉は痙攣始めるし…可笑しくて笑い出したら殴られるし」
「忍…俺、全然面白くねえんだけど!」
光流が、低い声で遮る。忍は笑いを納めた。
「何で?」
「お前っ…!親にそんなこと言われて笑ってんなよ!!」
思わず大声が出た。
家のために、常に最上を求められる旭。家のために、存在を無視される渚。そして。
「親に…そんな…!」
忍の父親か、忍自身にか判らないが、怒りがこみ上げる。
この世には、もっと当たり前な親子の関係があるだろう。もっと普通の、穏やかな幸せだってある。それを望んでいいはずなのに、与えられないことを平気で笑う忍。
(…血だって、ちゃんと繋がっているんだろう!)
忍はため息を漏らした。
「俺にはツボだったんだけど…お前までそんなに怒るようなら、笑うべきところではなかったのかもな」
あまりにも簡単に忍は態度を翻した。その軽さが気に障って光流は更に言い募ろうとするが、続く忍の言葉が言うべきことを忘れさせた。
「…そうか、だから父も勘当だと騒いだのか」
「か…勘当…?」
意外な言葉に、光流の怒りが一挙に引く。
「ああ。今度は俺が勘当されてしまった」
忍はゆったりと茶を啜る。焦ったのは光流の方だった。
「お前っ!これからどーすんだよ!大学は!?」
「そう問題はないよ。俺の仕送り用の口座には結構な預金があったんで、とりあえずそれを別口座に移しておいた。大学四年分の授業料位なら余裕でまかなえるさ。生前分与にしちゃ少ない額だ。親もうるさい事は言わないだろう。…父とは当分うまくいきそうにないが、母は懐柔の余地もあるし兄だって成人だ。保護者欄のハンコに困ることもない」
忍はそう言うと、立ち上がった。
「懐柔って、お前…」
母親に使う言葉じゃないだろう。
光流は頭を抱える。そして最近多くなったと思いながらまた一つため息をついた。
「お前はどうも俺の家族について釈然としないらしいが」
忍は光流の手から、すでに冷め切った湯飲みを回収する。
「俺は今度のことで、そうでもなくなった」
先程と違って真横から明りを受ける忍は、曇りのない笑みを見せていた。
わからない。
忍が飲み終わった湯飲みを持って階下に下りていくのを追いかける。
聞いた話を何度反芻させても、とても納得の出来ることではなかった。家の事情はそれぞれだとか、そういうことを言える範疇を手塚家は遥かに超えている。
なのに、忍は納得したらしい。
それは諦めとは違うようだった。忍は家の状況を理解し、なおかつそれを受け入れたのだと光流は思った。
(…そんなの益々、分らない)
「おい、忍…」
忍は台所で後片付けをしていた母と何事か話していた。母が光流に気付き、笑いかける。
「ああ、やっぱりお腹がすいたの?」
母と目が会うと、忍の言葉が蘇った。
『お母さんも、お父さんも、おじいさんだって騙されなかった…』
一瞬身構える。
途端に腹が鳴った。
「ホント、言った通りだね!」
母が爆笑して忍に目配せする。そして、小さい土鍋を火にかけた。
「すぐうどんできるからそこらで待ってな!」
「俺はお前の部屋にいるよ」
「え、ちょっと…」
呼び止める間もなく、忍は台所を出て行く。
「忍くんがねえ、あんたが後で絶対ご飯食べるって言ってさ」
「えっ」
忍の後姿を見送っていた光流は母へ視線を戻す。
「さっきあんたが二階に行った後でさ、『どうせ後で食べるに決まってます。あいつは顔まで胃袋でできてますから』だって。あはは、面白いよねえ、忍くん」
「何だよ、それ…」
「お風呂もあんたが先に入ってくれって。疲れてるみたいだからって…いい子だよねえ」
「…明日、大雪だぜ」
母に背中をはたかれる。
(何か、すげえ)
光流は頬が上気するのをごまかすように、コンロに掛けられた土鍋を覗いた。
忍に気を使われてしまった。
気付かれているのだろう。光流の中の迷いも苦しみも。全部ではないかも知れないが。
(俺のことはバレているのに、あいつのことは判らない…)
何だか酷く不公平だと思う。
忍は何かを隠しているのだ。先程の話も嘘ではないのだろうが、途中に随分抜けている箇所があるのではないか。
だから忍の言い分は、光流には理解しがたいものに聞こえてしまう。
忍のことだから、言わないとなったらトコトン言わないだろうが…いつか教えてくれたらいいと思う。
「…ねえ、光流、明日なんだけど」
光流は土鍋から目を上げた。母がめずらしく言いづらそうにしている。
「忍くん連れてさ、一日遊びに行っておいでよ」
「いいけど…何で?」
「明日、おばさんたちが来るんだよ」
親戚が来るとき、話題はいつも決まっている。この寺のことだ。
「あー…そっか。判った、どっか行ってくる」
忍なら他人の家の争いを見たところで顔色一つ変える訳もない。しかし、それでも光流は自分が原因の争いを見られたくなかった。
再び鎌首をもたげようとする暗い気持を光流は必死で押さえつける。
呪文のように繰り返す。大丈夫。大丈夫、大丈夫だ…。
四日。光流は忍をお参りに誘った。
まだ人で一杯の参道を歩き、ご本尊に手を合わせる。
その後人ごみを離れ、昼飯を手近なファーストフードで済まし、正月大作のアクション映画を見た。
更に本屋巡りをし、二人が光流の家に戻った時にはすっかり日が暮れていた。
「ただいま…」
格子戸を開けたところで光流は足を止める。
(しまった、まだいるのか)
居間の閉められた襖の外に、正十が立っている。だらりと下げた両腕の拳だけが妙に強く握り締められている。
遮るものが襖だけとあって、室内の声は筒抜けだ。
聞きなれたおばの声がする。光流は知らず胃の辺りをさすった。
言っていることは、ただの事実だった。
「ですけどね、あの子は養子だし…」
一際高く響いたその言葉に、正十がびくりと震えた。
(正は…限界だ)
「おい、正…こっち来い」
小声で呼ぶ。
正十が振り返る。眉間に深く皺を刻んで近付いてきた弟に囁いた。
「出かけようぜ。上着とって来い」
「光流…俺は!」
正十は悔しげに顔を歪ませる。
自分のために怒る弟を、光流は愛しく思う。
両親や祖父、今、大声を上げているおばや親戚たちでさえ、光流にとっては失うことなど考えられない。
(大丈夫だ。あと少し、ほんの少し耐えればいい。その程度には、俺は強いはずだ)
光流は正十に笑いかける。
「ばーか、なんつー顔してんだ」
(正、悪いが付き合ってくれ。もう少し、我慢してくれ…)
その時、急に腕を掴まれた。
「忍?」
何すんだ、という言葉を呑み込む。
すぐそばに、言葉を差し挟むことを許さない厳しい双眸があった。
「お前は、ここで引くのか?」
掴まれた場所を痛いほど締め上げられる。
「忍!?」
光流の非難の視線を忍は真正面から受け止める。それから唐突に、光流の腕を開放した。まるで投げ捨てるかのように乱暴に。
忍の顔には、さめた笑みが浮かんでいた。
「…もっともお前の問題だ。俺には関係ないけどな」
内心の葛藤を見透かされたようだった。頭に血が昇る。
「何が…言いたい!」
いきなり険悪になった二人に正十が狼狽している。それを知りつつも、光流は昂ぶった感情を抑えることができなかった。
光流はいつからか我慢を覚えた。我慢、忍耐、それこそが光流にとっての正義だった。
どんなにあがいても家族と血の繋がらない事実は変えようがない。それでも池田の家族として生きていくのならば、起こる全てのことに耐えるしかないだろう。だからこそ、光流は耐え抜く強さを心から欲し、そうあろうとしてきたのだ。
だが…その結果は、どうだ?
家族には見透かされ、正十を苛立たせ、同居人には蔑むような視線を突きつけられ。
挙句、自分の中には未消化の感情がいつまでも燻って、今にも爆発しそうに膨れ上がっては内側から光流自身を責め立てる。
(限界なのは正じゃない)
忍は黙ったまま光流に視線を注いでいる。
誰もが腫れ物に触れるようにして踏み込まなかった心に、無遠慮にも差し込まれた冷たい刃のようだった。
(正じゃなくて…俺、だ)
風穴を求めていた心はあっさりと破裂する。
(俺が、言いたいのは)
光流は自分がいとも簡単に一線を踏み越えたことを知った。
「くそっ…判った、判ったよ!…正、お前も来い!!」
注がれる視線を同じ強さで睨み返す。乱暴に靴を脱ぎ捨て、廊下を大またで進んだ。
襖をいきなり開け放つ。家族や親戚の視線が集中した。
(強くなりたい…耐えるための強さではなく…人の善意もしがらみも、自分ではどうしようもない状況もなにもかも乗り越えて、ただそのままにあるための強さを…)
「光流!あんた、行儀の悪い…」
「俺はっ…!!」
光流は母の小言をさえぎった。
「正もよく聞けよ…俺は寺を継ぐ気はない!もう…」
光流は思い切り息を吸う。
「…こういうのはうんざりなんだよ!!」
痛いほどの沈黙が流れた。
(言って、しまった…)
興奮が去ると直前の決意はどこか曖昧になり、後悔の念が浮かび上がる。かといってどうすることもできず仁王立ちのまま立ち尽くした。
すると背後から微かな含み笑いが聞こえた。
むっとして振り返ると誰もいない。
「あけましておめでとうございます。初めてお目にかかります。僕は光流君の学校の友人で…」
笑った当人はいつの間にか廊下に手をついて、戸惑い顔の親戚達に挨拶を始めていた。その完璧な笑顔は光流の激昂などなかったかのような穏やかさだ。
その突拍子もない友人を見下ろし、光流は脱力した。
何なんだ、こいつは…。
がっくりと肩を落とす。
すると、頭を撫でられた。
「え!?」
懐かしい感触に驚いて顔を上げると、母の笑顔が目の前にあった。
「ホントにこの子は…」
父も笑っている。祖父も苦笑を浮かべている。
「っとに、いつもそういう風にちゃんと言えばいーじゃねーか!!」
正十だけが不機嫌そうだが、口にする言葉は否定的なものではない。
(言って…よかったのか、な)
まだそんな風に思ってしまうことは後ろめたくもあったが、それ以上に大きな安堵に包まれる。
ふと気付くと、忍の姿がなかった。
「おい、忍!」
廊下に出て、階段を上ろうとしている所を呼び止める。
「お前の部屋に行ってるよ。これは家族の問題だからな…他人の俺には関係ない」
振り返る忍はいつもの食えない笑みを浮かべている。
(俺の、家族)
光流は少しだけ考えてから頷いた。
「悪ぃ。すぐ行くからさ」
「ゆっくりどうぞ」
からかうような響きさえ、今の光流には暖かい。
そして、光流は家族の待つ部屋へと戻っていった。
五日。光流は忍と連れ立って、駅への道を歩いていた。
後、二ヶ月少しで卒業だ。これが緑林寮での最後の生活だと思うと感慨深かった。光流は今日から始まる寮での騒がしい日々を大事にしようと思う。
そんなことを考えて無言でいると、同じく沈黙を続けていた忍が口を開いた。
「光流」
「あー?」
「二人で家賃九万、なかったことにしてもいいぞ」
光流は隣を歩く同居人を振り返る。
忍は無表情に前を向いている。それが、光流に見られていることに気が付いて眉をしかめた。
「何だよ」
横目で睨むその背を、光流は思い切り叩いた。忍はむせる。
「っ…何するんだ」
「なーに言ってんだよ、おまえは!」
忍は憮然として、再び進行方向を向く。
光流は緩む口元を押さえた。
厚意を不機嫌さに紛らわせてしか示せない忍に、心の中でつぶやく。
…ありがとう。
(俺は、本当は、まだとても弱くて)
家をでて一人で生きていくことは、今からでもやれと言われればできるだろう。そうしなければならない時がいずれ確実に来るだろう事も理解している。
けれど。だからこそ。あと少し。…このまま隣を歩いて欲しい。
「…これからも仲良くやりましょうや」
「誰と誰が?」
「またまた、そんな冷たいこと言ってー」
謹賀新年…今年もよろしく。
FIN
2005.4.17
この物語、日本語がちゃんとしているか、そこからすでに不安です。
中身がアレなのは仕方がありません。妄想ですから。はい。
書いたのは正月前でした。確かに。
しつこく友情モノ。
そろそろキナ臭くなってくれんものか…。
※画面を閉じてお戻りください。
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