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【その手で全てを】

「あら、来たわね、親不孝」
「久しぶり、倫子ちゃん。元気?」
忍は笑顔で、ベンチに座った倫子の隣に腰をおろした。
桜はすでに散り、新緑が勢いよく芽吹いている。春の終わりの暖かい午後。公園は賑やかな声に溢れていた。日曜日なので父親に連れられた子供の姿も多い。
(この子もいつか、父親に連れられて公園に遊びに来ることがあるのかしら)
倫子は腕の中で眠る小さな命を見下ろした。
「初めて見るな。兄さんの子」
忍が覗き込んでくる。
「…怖ろしいことにね、忍くんの赤ちゃんの頃そっくり」
「そりゃ将来楽しみだ」
「相変わらずね。ところで、彼氏は?」
「事実とそう遠くないけど、変な言葉だね、彼氏って」
皮肉を込めた言葉を忍はあっさりと肯定する。倫子は溜息をついた。
「もう誤魔化しもしないんだ」
「事実を知ってる相手に、誤魔化しても意味がないしね。あいつはどこかで時間を潰しているよ」
忍が笑う。
いつもと同じ似非笑顔かと思ったが、印象が違う。
この前、最後に会った時はどうだっただろう。それがいつだったかと思い返す。少なくとも、子供が生まれる前だった。
(…ああ、そうだ)
衝撃の告白を聞かされた時以来、忍とは会っていなかった。
あの時、手塚の一族がそろった前で、突然のカミングアウト。怒号が飛び交う中でも、忍は子憎たらしい作り笑顔を浮かべ続けていた。
それが今、随分自然に笑っている。整った顔立ちのそれは、目を眇めたくなるほど眩しかった。
「家のみんなは元気?」
「捨てた家が気になるの?」
「僕は捨てたつもりはないよ。父さんは僕を捨てたいと思っているかも知れないけれど」
だがその眩しさは…忍が旭の人生と引き換えに得たものなのだ。
顔色一つ変えない忍の様子が倫子の苛立ちをあおった。
「…お義父さんだけだと思う?」
酷いことを言っている自覚はあった。腕の中の赤ん坊まで汚れそうな気がした。醜い自分から離すように、抱く力を緩める。すると赤ん坊が不安げにむずかった。
「何だか動いてる…ちょっと見せて」
「えっ、ちょっと!」
止める間もなく、赤ん坊を腕からさらう。
一瞬、忍が子供に危害を加えるのでは、と思った。
忍は赤ん坊の腋の下を持ち、体をぶらつかせる状態でまじまじと眺める。何が楽しいのか、赤ん坊が笑いだした。
「…みんな同じだな。乳児の固体識別は難しい」
そして再び倫子の腕に赤ん坊を返した。
「訂正。今、僕を許容するのはそいつだけだな」
赤ん坊を抱く手に力を入れて、隣に座る義弟を見た。倫子の発した傷付けるためだけの言葉など聞こえなかったように、穏やかな表情で公園の景色を眺めている。
(…私の言葉は、もうあなたに対して何の力も持たないのね)
十年前、まだ中学生だったというのに、忍は倫子の言葉を受け入れた。傷つける言葉には皮肉で、優しい言葉には嘘で応えた。
しかし今、こちらの投げかけは全て飲み込まれ、忍というフィルターを通して戻ってくるものは何の毒も薬も含まない、ただの穏やかな言葉だけ。
自分が何を言っても、独り言と大差はないのだ。
「…旭も許してるわよ」
「兄さんが?」
「そうよ。もういっぱしの悪徳政治家の卵。優秀な弟が男とできてドロップアウトしてくれたもんだから毎日小躍りしてるわよ」
少しでも忍に届くように。ほんのささくれ程度でも影響があるように、嫌味を言ってしまう。これ以外に話す言葉を持たないかのようだった。
自分自身にうんざりする。
昔、旭が去ったのを全て忍のせいにして、大人気なく当たった。しかし、本当はただの八つ当たりだと判っていた。確かに忍はかわいげのない生意気な子供だったが、旭が自分をも捨てて逃げたことにそれは関係がない。
そして今。忍が去って旭を取り戻したというのに、今度はそのことで八つ当たりだ。旭が変わっていくのは、もちろんこの憎たらしい義弟のせいではないというのに。
しかし、理解によって感情が抑えられることはないのだ。一度生まれた黒い感情は、容易なことで消えはしない。
(忍さえいなければよかったのに)
「倫子ちゃん」
呼びかけられて、はっとする。
強く抱きしめた赤ん坊が泣き出す寸前だった。慌ててさすってやると、赤ん坊は眠たげに目を瞬いた。
「僕が憎い?」
あまりにも静かに尋ねられて、一瞬意味が判らなかった。
暖かい太陽に温められた倫子の体が、遅れてぴくりと揺れる。目を瞑りかけた赤ん坊が震えた。
忍は静かに笑っていた。
「ちょうどいいんじゃないかな。振り上げた拳の落とし所がないのなら、それを僕に向ければいいんだ」
「何を、言っているの」
「変わっていく兄さんを、愛するしかないのなら。気晴らしにそうしてくれて構わない」
こんな怖い子だったろうか。何もかも知り尽くしているかのような。
いや、それは以前からそうだった。見えなくてもいいものまで見通す賢しい子供だった。
しかし、触れられたくない所に踏み込んでくるようなことはなかったはずだ。
心を蹂躙されるこの嫌な感じは、以前どこかで覚えがあった。
「足掻いても心は変えられないんだ。倫子ちゃんだけじゃない」
…そうか。この図々しさ。
妙に綺麗な造作の、男の顔を思い出した。無作法なほど真っ直ぐに倫子を睨みつけ、当然のように忍の所有権を主張した、男。
「あの子…池田君。私、嫌いだわ」
「へえ、アレを嫌う人間は希少だよ」
「嫌な子じゃない。何か自信満々で。僕は正しいんですって顔して」
「そうだね。僕もそう思う」
「でも愛するしかないんでしょう?」
忍はただ、声を上げて笑った。
(ああ、さっぱりした顔しちゃって。あの鼻持ちならない子供がこんな男になっちゃって)
憎んでくれていいとは言っているが、振り上げた拳はきっと忍に届かないだろう。手塚の家に入った旭を選んだときから、忍と自分の道は遠く分かたれたのだ。
そして、もう二度と交わることはない。
「ああ、兄さんだ」
忍の視線を追う。公園の散歩道を歩いてやってくる、スーツ姿の旭が遠くに見えた。
(ほら、パパですよ)
うとうととまどろんでいる赤ん坊に、心の中で語りかける。
(でもパパが判らないのよね。仕事に夢中のパパはあなたに忘れられたことさえ気付かない。そうして手塚の家に取り込まれて、真っ黒に汚れて、何もかも踏みつけにして生きていく…)
「気に入らないなら、壊してしまえばいい」
穏やかではない言葉をつむぐ静かな声。
「無理矢理中身を晒してやればいい…そうして奪わなくては、何も手に入らないんだ」
奪え。自らの手で。
忍の方を振り返ろうとして、その肩越しに目が止まる。
遠く芝生の丘の上からこちらを見ている男の姿。
「…あの『王子』にそうやって奪われちゃったんだ」
「え?」
忍もまた、振り返った。
「何やってるんだ?あんなところで」
「それ、天然ボケ?心配だったんでしょ。お姫様が」
今日はじめて見せる忍の複雑な表情に倫子の溜飲が下がる。
(…やっと、一矢報いてやったわね)
「忍、久しぶりだな」
旭が二人の前に立つ。忍がベンチから立ち上がった。
「お久しぶりです、兄さん。お変わりなく…といいたい所ですが、大分変わりましたね」
言う通り、旭はどんどん変わってきている。はにかむような笑顔は消え、優しげなまなじりは狡猾さを増し、大柄の体躯は威圧感に満ち、身に着けるスーツの値段は上がって行く。
「お前は、どうだ?相変わらずなのか?」
「相変わらずです。すみませんね、外聞の悪い弟で。あ、言い忘れてました。当選おめでとうございます」
「そんなのはどうでもいいよ。…母さんは鬱々としてるぞ。お前、わかっているんだろうな?」
「わかっています」
「じゃあ、何であんなのと別れない?」
「無理だから」
「…忍…」
「近いうちに、手塚の家に伺います。父さんと母さんにも会いたいし。今日は元気な顔が見られてよかった。もう帰ります」
そう言ってあっさりと背を向けた。
「待て、忍!」
去りかけた忍が立ち止まる。
「お前、手放したものに何の未練もないのか?本当にこのままでいいのか!」
声を上げる旭は昔の旭だった。自信がなくて、年の離れた弟の影のようだった旭。
忍は軽く目を見開いた。
それから、満面の笑みを浮かべる。
「僕、欲しいものは何も手放してませんよ。兄さんはどうです?」
旭が言葉を飲む。
旭が手塚の家での居場所を得るために、どれだけのものを費やしているか、それのわからない忍ではないだろう。
知っていて痛い所をついてくるのだ。表面がどれだけ穏やかになったところで、性格の悪さは変わらない。
(それとも『あんなの』呼ばわりの仕返し?)
「じゃあ、兄さん。倫子ちゃんも、お元気で」
そして笑顔のまま、背を向けた。
その先で、池田光流が倫子と旭をじっと見つめている。
「ホント、やな子。お似合いだわよ」
「倫子?」
振り向くと、一部の隙もない青年代議士の旭が立っている。先程垣間見せた昔の旭はすでにそこにはいなかった。
…壊してしまえ。
「それも、おもしろそう」
「何が?」
倫子は旭に赤ん坊を押し付けた。反射的に抱く旭。赤ん坊は慣れない腕にぐずり始める。
「有権者にばかり顔売ってないで、自分の子供の機嫌くらいたまには取ったらどう?」
「の、倫子…」
赤ん坊は旭に任せたまま、その腕に手を絡ませた。旭は困った表情で赤ん坊と倫子を交互に見下ろしている。
年季の浅い仮面は簡単に壊れる。そこに残るのは、手塚の総領でも、代議士でもないただの旭だ。
倫子は構わず腕を引いた。時々、空いた手で赤ん坊の頬をつつく。ぐずっていた赤ん坊もやがて諦めたように旭の腕に収まった。
そして三人で、あの黒くて大きいだけの手塚の家に帰る。
何てことはないのだ。場所なんて関係ない。
変わらない気持は、今この手の中にある。
そう、多分、それだけが、唯一大事なことなのだ。


ね、忍くん。

FIN
2005.7.22


掲示板短期連載から掬いあげ第2弾。
倫子ちゃんは旭を一生ちくちくいじめて楽しむといいです。
幸せそうだ…。

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