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【楽園】(10)

 忍がようやく大学に辿り着いたのは夕方になってからだった。
 大学は開いていた。すでに薄闇に包まれつつある構内を歩く。
 図書館に行く気はすでに失せていた。
 思いつくまま、就職指導課に向かう。
 白い紙に覆いつくされたボードの列の、ただ一点を目指す。
 ボードのその位置に、相変わらずそれはあった。
 他の求人票が刻々と変わっていく中で、四隅を欠いた状態のままで。
 所在地の欄を見ても、やはり感じるものはない。ただの見知らぬ地名だ。
 何も考えてはいなかった。ただ、紙の下端を持ち、強く引いた。紙は画鋲の廻りを除き、きれいに破り取られた。
 就職課の周辺には冬休みの、しかもこんな夕方にも関わらず、それなりに人がいた。就職が決まらない四年生か、気の早い三年生か。しかし、誰も今の行為を見咎めるものはいなかった。
 また一回り小さくなってしまった紙を特に隠す気も起きず、手に持ったまま公衆電話に向かう。
 受話器を取った。
 そこで初めて、忍は自分のしていることに疑問を感じた。
 進学も決まっているのに、こんな場所にも興味はないのに、司書なんてなる気もないのに…何をしようとしているのか。
 小銭を電話機に入れる。求人票に書かれている電話番号を押す。
 自分のしていることが信じられなかった。まるで別人のように、手が勝手なことをしている。相手が出てしまったら、何と言っていいのか見当もつかない。
 しかしそうしているうちに呼び出し音が途切れて相手が出てしまった。
『もしもし…』
 静かな初老の男性の声が耳に響く。
 途端、どんなに想像しても敵わなかった鮮やかな海の光景が浮かんだ。
 青、緑、紫、黄、朱、赤。そして空色、水色、ひたすらの青…深く複雑な色の洪水。
 自分の心のどこからそんな光景が沸きあがったのかと驚いた。長野で生まれ育った忍には海の記憶など数える程もない。だと言うのに、全身に鳥肌が立つほどの現実感を持ってその景色は眼前に迫る。
 あるのか。本当に。
 この電話の先に。この鈍い心さえも震わせるような絶景が。
『もしもし、どうされました?』
 呼びかけが遠かった。
 電話の向こうは、遥か彼方の南の島。
「…失礼しました。僕は…」
 名乗ってから、その後に続く言葉は滑らかに紡がれた。
「求人票を見てお電話を差し上げています。応募をするにはどうしたらよろしいでしょうか」

To be continued !
2006.3.27


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