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【楽園】(12)

 その考えを振り払おうとしたが、視線があるところでとまった。
 商店街の外れに、ボックスの公衆電話があった。
(止めておけ。ろくなことにならない)
 しかし、考え直す。
 ボックスの中に入り、財布の小銭を確認する。
(長く話すわけじゃない。そんなに小銭は必要ない。冷静に事実だけを伝えればいい。進学を止めたこと。アパートを引き払うこと。ただ、それだけだ)
 小銭を数枚、電話機に入れた。何度も電話は貰ったのに、こちらからは一度もかけたことのなかった番号を押す。
 呼び出し音が鳴り始める。一回、二回…。いないなら、むしろその方がいいと思い始めたとき。
『はい池田です』
「…俺だ」
『忍?どーしたよ?』
 言わなければならない。事実を。
 しかし、あまりにもいつもと変わらない光流の明るい声に気圧されて、言葉が繋がらない
 すると光流が話し出した。
『ま、ちょーど良かった。俺も電話しようと思ってさ』
「何だ?」
『お前、今度卒業式だろ。お祝いにおごってやるからさ、久しぶりに飯食いにいかねえ?』
 なんて事を言い出すんだと思った。
 約束などもちろんできない。忍はもう、ここを去るのだから。
 やはり言わなければならないのだ。
「…明日は…無理だ」
 忍はやっとの思いで言葉を返した。
『なんだか最近随分忙しいのな。いつなら空いて…』
「お前に言ってなかったことがある」
 光流の言葉を遮った。これ以上聞いていられなかった。向こうが何か言い出す前に、忍は言葉を継いだ。
「俺は進学をやめた」
『進学やめたって…院にいかないのか!?』
 受話器の声が大きくなった。
『何で今まで…これからどうするんだよ!?就職すんのか!?』
「ああ」
『どこに!』
「それは」
 別に言ったって構わない。
 どれだけ距離が離れようが、自分たちの間柄には変わりはない。
 忍と光流の関係は今やただの『知り合い』だ。
 光流は縁の薄い相手対しても親身に接することができる。自分もそんな中の一人だと忍は思う。
 『知り合い』なら、進路の変更も遠くに離れることも軽く告げて別れを惜しみ再会を約束することできる。
 ただ。
 自分はそうは思っていない。
 自分だけが、今でもそうは思っていないのだ。
 喉から声を絞り出す。
「言えない」
 光流は絶句した。
『…何で』
 時間を置いて聞こえてきた光流の声は、怖ろしく低かった。
『…お前、今どこにいるんだ?』
 言ってしまいそうになる。お前と住んでた部屋のすぐ傍の公衆電話だよ。そこからならすぐに来られる、と。
『言えよ!どこにいるんだよ!』
 しかし言えるわけがなかった。今更会うことなどできなかった。何て酷いことを聞くのだろうと思った。悪気がなければ何でも許されるとでも思っているのか。いつも光流は無邪気に人を蹂躙する。
 目の前が真っ赤になる。もう何も見えない。何も考えられない。
「…二度と言わないからよく聞け…」
 喉が焼け付くようだった。やっとの思いで出した声は掠れていた。取り繕うことなどできなかった。感情が暴れるのを押えるだけで精一杯だった。
「俺は、ずっとお前に頼ってた。高校の時からずっと…でもこんなのはもう嫌なんだ」
 光流を失っても忍の人生がそこで終わる訳ではない。
「だから…俺の人生にお前が要らないことを証明する」
 受話器からは何も聞こえなかった。
 光流にしてみれば、何を言い出すのかと戸惑っているのだろう。
 言いがかりとさえ思っていることだろう。
 だが忍には、失うには耐え難いほどの、たった一つの友情だったのだ。
 目の奥が疼く。口を利くのももう、限界だった。
「じゃあな。元気で」
 電話を切った。
 受話器から強張った指を無理矢理引き剥がし、つぶやく。
「…帰ろう」
 帰ろう。
 あそこへ。あの海へ。自分で決めた、生きる場所へ。






 暗い波が寄せては返す。寄せては返す。何度繰り返しただろうか、やがて空は白み、海は色を取り戻す。
 群青から青。ライトブルーになる頃には薄い緑が混じる。鮮やかな紫が薄い層を作ったかと思うとそれは突然差し込んだ金色に飲み込まれる。水平線上に姿を現した太陽に辺りが黄色一色に染められ、その上に橙、朱を一瞬だけ乗せたかと思うとそれはすぐに消える。
 あとは一面のコバルトブルー。
 何度見ても、身の震えるような感動を覚えた。
 ひんやりとした海の風が朝日に温められていく。堤防前の砂浜に腰を下ろし、冷たいコンクリートに背を預けた。タバコに火をつけて息をつく。
 こんな光景がこの世にあることを知らなかった。
 自分の世界がいかに狭かったかを思い知らされる。それだけでもここに来た甲斐があった。
 日々穏やかで、ただ生きるためだけに生きることのできる場所。
 安堵に包まれて目を閉ざすと、すぐに眠気がやってきた。
 毎朝、日の昇る前に浜に出て、日の出を眺める。雨の日も、その習慣は変わらない。
 そして、天候が許す日は少しだけ、ここに腰を下ろして休む。
 次に目を覚ますのは、太陽の光が目に眩しくなる頃だ。
 腕時計を見る。そして立ち上がって、腰の砂をはらう。
 仕事の始業時間までにはまだ間があり、今、図書館に行っても他の職員は誰も来ていない。しかし、鍵は預かっていた。忍がいつも一番に着いて玄関前で待っているので、館長が都合してくれた。
 仕事は好きだった。毎日同じ作業の繰り返しだが、刺激が全くないわけでもない。図書館の仕事は自分に向いていると思う。
 そして、この海。
 写真とは比べようもない、本物の、息を呑むような光景。
 ここに来るまでの日常とはかけ離れた眺め。
 逃げているのだろうと思う。でも、それの何が悪いのだ、とも思う。
 逃げずに戦って息の根を止められてしまっては元も子もない。
 昔、そんな風に自分を赦せと教わったのだ。
 『誰に』かは、心の奥に封印する。
 今は、この穏やかな空気の中でゆっくりと息をする。それでいい。
 ここは楽園。
 やっと辿り着いた場所。

FIN
2006.4.11


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