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【楽園】(2)

「大学院合格おめでとーございまーす!!」
 シャンパンの栓が小気味の良い音を立てて飛んでいく。
 池田光流は慌てて、溢れる液体を二つの洒落気のないコップに注ぎいれた。
「それでは、乾杯!」
 こつん、とコップの縁があたる。
 季節は十一月になっていた。
 それにしては暖かい夜で、高校を卒業した時から二人でシェアしてきた2LDKも暖房の必要は感じない。冷えたシャンパンが喉に心地よかった。夕方バイトから帰ったばかりの光流が、忍の法学部大学院合格を知り、止めるのも聞かず暗い中を飛び出して調達してきたものだ。
「目出度いんだから、ぱーっとやろうぜ!」
 とはいえ目の前に並んだ夕食は粗食に近い。バイトに学業に忙しく中々部屋にいない光流に代わって忍が作ったものは、簡単な野菜炒め、具の少ない味噌汁に白飯だった。もともと祝う気もなかったので、普段通りのメニューを用意しただけだ。
「たいして目出度くもない。単に努力の結果だ」
「ヤな奴だなー、ホント」
 そう言いつつも光流は笑っている。
「で、行く末は弁護士か検事?」
「裁判官という道もある」
「怖ぇー…お前に裁かれたくねー」
「嫌ならせいぜい身奇麗に生きるんだな」
「で、希望はどれ?」
 その質問に、忍はすぐに答えることができなかった。
「そうだな…実はどれでもいい」
「へ?」
「どれも社会的に有益な仕事だからな。これという希望は今のところ特にはない。どれを選んでも困らないよういろいろ準備は始めているし、その時がきたら、自然に決まるんじゃないか?」
「随分消極的だな…」
 光流は眉根を寄せた。自分の将来を話すにしては忍の態度が投げやりに見えたのだろう。
 そんな光流に、忍は告げる。
「俺にとって重要なのは何をするかということじゃなくて、どれだけのことができうるかということなんだ。決めたらそれを極めたい。選択過程には興味がないんだ」
「お前らしいといえば、らしいけど」
 光流は得いかないようだが、しようという努力はしているようだった。
「俺はあんまり辛抱できるほうじゃねーから、やりたいことやって生きてくっきゃねえと思うけどな」
 光流らしいおおらかな言葉に思わず口元が緩んだ。
「なんだ、自分の事をよく判っているじゃないか」
「どーせ粗忽な俺ぁ忍くんにゃあ遠く及びませんよ」
 光流は憮然と言う。
 忍は目線を落とした。
(及ばないのは、…お前じゃなくて)
 そもそも自分が今、通っている大学と法学という学問を選んだのはなぜか。
 それが、将来のビジョンとして望みうる最高のものの一つだからだ。
 目の前でシャンパンをあおっている同居人に会うまでは、むしろ人生は楽だった。道は、ただ奈落に繋がる一本があるだけで、それに従ってひたすら落ちていけば良かった。それを無理矢理引き上げられて、ではこれから何を目指そうかと思うと、何も思い浮かばなかった。
 努力を厭う性質ではないし、何事もそれなりにこなせるとは思う。しかし、では将来の夢は、などと聞かれると沈黙するしかない。
 だからとりあえず上を目指した。目的意識の薄いところは高みへ上る達成感で補った。
 今、考えている具体的な未来図は、大学院在学中に司法試験を受けて、そう遠くない未来に現れる次の選択肢を待つぐらいのこと。
 やりたいことをやって生きる、と言い切る同居人が眩しく見える。
 高校三年の一月に、光流から進路変更の話を聞いた。
 俺、医者になりたいと思うんだ。
 その報告を聞いた光流の担任は哀れなくらいに面食らっていた。それまでの進路なら確実に合格圏内の生徒が、浪人覚悟で進路変更するなどと言い出したのだから、その気持は判る。
 それでも、医者という選択は光流らしいと思った。
 医学部は金銭面での負担が大きい。家族と血の繋がらない事実に負い目のあった光流にとって、その夢に素直に向かうにはそれだけの時間が必要だったのだろう。
 結局その年の受験には間に合わず、親に必死に頭を下げてこの部屋で浪人生活を送る許しを得た一年後、私大の医学部に進んだ。
『親に借りが増えちまった。ま、時間かけて返すしかねーな…』
 合格の知らせと共にそう言った光流に翳りはなく、家族との関係に彼なりの答えを出したのだと感じた。
 前に向かって着実に向かっている光流。その傍らにいて、先の望みさえもろくに描けない自分。
 いや、望みなら一つだけあった。
 …いつまでも、この穏やかな日が、続くといい。

To be continued !
2006.1.26


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