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【楽園】(3)

 食事をしながら一時間ほど取りとめのない話をした。
 ふと、光流が時計を見る。
「あ、やべ、時間だ」
「バイトか?」
「ああ」
「いってらっしゃい」
 忍は慌てて立ち上がる光流を送り出そうとした。しかし光流はテーブルに広げられた汚れた皿を集め始める。
「行けよ。遅刻するぞ」
「運ぶ位できるよ」
 光流は強情に言い張った。
 こういう時の光流の表情はかなり癇に障る。
 罪悪感から忍と目を合わせなくなるのだ。いつごろからかは定かではないが、最近光流はよくこんな顔を見せるようになった。
 ルームシェアの基本である家事の分担が、忙しい光流と忍では公平にいかないことを悪いと思っているらしい。確かに、より多くの家事をこなさなければならないことに腹立たしさを感じることもある。しかし、たかが生活の雑事のことでそんなに深刻になるなと忍は言いたかった。
「いいから早く行けよ。遅刻は社会人として最低だぞ」
 苛立ってきつい口調になる。
「俺、学生だもーん」
 それでも光流は減らず口を叩く。憎たらしい。
「アルバイトは社会活動だ。さっさと行け」
 光流の手から皿を奪おうとした時、電話が鳴った。
 忍は小さく舌打ちし、仕方なく電話に向かう。
「もしもし」
『忍か?』
 兄の旭だった。父親に土下座して長野の実家に戻った旭は今、代議士である父の秘書として働いている。もう二年ほど会っていない。去年、遠縁の倫子と結婚したことも、こうして電話で聞いた。
 高校三年の正月に父と衝突した。
 生まれて始めて、父に自分の気持を告げた。父の決めた進路を断って、自分の意見を貫いた。結果怒り狂った父に勘当だと言い渡されて以来、父の怒りはまだ解けない。
 勘当だといっても、母と兄は相変わらず忍に援助を続けていたし、実際は何も困ることはなかった。しかし、実家に帰る足はさすがに遠のいていて、旭と電話で話すのも久しぶりだった。
「ご無沙汰してます。皆さんお元気ですか?」
『お前は元気そうで良かった。こっちは父さんが倒れたんだ』
「…父さんが倒れた?」
 あの(殺しても死にそうにない)父さんが、と言おうとして思いとどまった。
 背後では、光流が聞き耳を立てていた。
『心筋梗塞だ。たいしたことはないらしいが、表にはもう立てないかもしれない』
「そうですか。…いよいよ、兄さんの番ですね」
『まだ早いとは思うがな』
 父親が倒れたばかりだというのに、今後を平気で語り合う息子達。兄と自分に共通点などないと思っていたが、やはりどちらも手塚家の子供なのだ。
 旭が、手塚の家と父の築いた政治家の座を全て引き継ぐ。その暗部、諸共に。
 代々政治家を輩出してきた家の跡継ぎが地盤を継ぎ、選挙に立つのは至極当然のことだった。秘書という名目の後継者修行に入っていた旭なら、その覚悟はしていたはずだ。
 以前の自分がそうだったように。
 胸に微かに浮かんだ痛みは、家への懐かしさだった。
 あんなに逃げたがっていた家に、そんな想いを抱いたことが可笑しい。
 その気持を心に隠し、病身の父親を持つ息子にふさわしいセリフを探す。
「…僕、帰った方がいいでしょうか」
『いや、今回は止めてくれ。父さんはお前には意固地になるからな。今は安静にさせたい』
 旭ははっきりと、そう言った。
 しばらく話さないうちに随分感じが変わっていた。政治の仕事で揉まれた効果だろうか。忍は受話器を持つ兄の姿を想像するが、今の会話で受ける印象と記憶の旭が重ならなかった。
 旭は名実共に手塚家の総領になったのだ、と思った。
『ところでお前、進学のほうはどうなった?』
「ああ、いい忘れていましたが、受かりました」
 旭が受話器の向こうで軽く笑った。
『簡単に言うじゃないか。お前らしいよ。学費は心配するな。俺も母さんもお前の進学には賛成しているから』
「ありがとう、兄さん。兄さんも大変でしょうが、体に気をつけてください」
『お前もな。それからもっと電話しろよ。母さんが愚痴ってたぞ』
「気をつけます」
 電話を切った。
「…親父さん倒れたのか?」
「まだいたのか」
 光流がぐずぐずとそこに留まっているのは知っていたが、背を向けたまま嫌味を言う。
「実家、帰るのか?」
「いや、帰ってくるなと言われた」
「…ホントにそんなこと言われたのか?」
 奇妙に静かな声だった。忍は違和感に振り返る。目が合う寸前に、同居人はあらぬ方を向いてしまった。視線の先に意味があるとは思えなかった。
 横顔に浮かぶ表情は…困惑、だろうか?
「…当然だろう。勘当中の身だぞ。のこのこ帰ったら、父の心臓が止まりかねん」
「おかしいぜ、お前んちは」
 いつもの光流なら、こんな風によその家を非難したりはしない。明らかに様子がおかしかった。
 どうしたと問うべきか?忍がそんなことを考えているうちに、光流が耐え切れなくなった。
「…あ、バイト、行かなきゃ」
 逃げるように出て行く後姿を無言で見送る。閉まったドアから目が離せなかった。
(お前、一体何を考えていた?)
 小さなしみのような不安が、胸に浮かんだ。

To be continued !
2006.1.31


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