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【楽園】(4)

 十二月に入り、世間は年末の慌しさに包まれていた。
 忍はスーパーで食材や生活用品を買い込んで、帰りがけに本屋に寄った。卒論も中身は固まっていて、後は推敲していくだけだ。正月開けの試験と卒論の提出を過ぎれば、卒業式を待つのみとなる。久しぶりに時間を持て余すような日々が続いていた。
 しかし、光流は相変わらず忙しかった。大学の講義ももちろんだが、主にバイトの占める割合が大きい。授業料は親に頼っているものの、生活費に関しては援助を受けていないので、常にいくつものバイトを渡り歩いていた。
 あの日感じた疑問を問いただす間もなかった。その後光流は普段通りの天真爛漫さに戻ってしまったし、疲れて帰ってくるところにそんな質問をぶつけるほど忍も無神経ではない。
 何が何でも聞き出さずにはいられない、という程の事でもなかった。
 本屋で雑誌のコーナーを廻る。クロスワードの雑誌と情報誌を手にとった。レジに向かおうとして、ふと足が止まる。
 そこは旅行雑誌のコーナーだった。思わず忍は平積みにされた一冊を手に取った。
 表紙には、この手の雑誌によく見かける椰子の木を入れた海の写真。表紙の下半分を覆うように小さな字で印刷されたたくさんの地名の中、見覚えのある文字列があった。外国のような、あの地名だ。
(観光地、だったのか)
 中をめくる。目指すページは雑誌の後ろのほう、単色で印刷された部分にあった。記事はごく小さくて、写真数枚に文章が付けられている。
『自然のままの海。手付かずの原生林。観光客の少ない好スポット。絶景は息を呑むこと間違いなし』
 要するに、何の整備もされていない場所だということだ。
 記事の端に参照ページの案内があった。カラーページに写真が載っているようだ。そこを開いてみると、たくさんの海の景色に埋もれて、それはあった。
 代わり映えのしない浜辺の写真だった。そのページに載っている写真は皆、同じに見えた。もっとも海は全て一つに繋がっているのだから、当たり前なのかもしれないが。
(これが息を呑む絶景なのか?)
 しばし真剣に写真を眺める。美しい景色と言えばそうなのかも知れないが、気持を動かされるようなことはほんの僅かもなかった。
 感動しにくい性質なので、写真ではなく自分のほうに問題があるのかもしれないと忍は思う。
 光流に見せてみようか、と思い立った。あれはやたらと感動するから、息を呑むかもしれない。
 忍が三冊の雑誌と買い物袋を抱えて部屋に戻ると、調子外れの歌声がバスルームから聞こえてきた。
 同居人が風呂に入っていた。光流が夕方の早い時間に風呂に入るのは、徹夜のバイトがはいっている時だ。
 忍はコートを脱ぎ、買ってきた物を所定の場所に整理する。電気ポットの湯で茶を入れて、そのマグカップを先日出したばかりのコタツに置いた。
 コタツに脚をいれるとすでに充分暖かい。光流が電気を入れておいたのだろう。その中で、冷えた足先がじんわりと温まるのを感じながら、買ってきた雑誌を手に取った。
 雑誌を取り出そうとした時、紙袋が雑誌の重みに耐えきれず破れた。
「!」
 卓の上に落ちた雑誌は滑り、マグカップを倒す。
 中身が零れた先に、光流のデイバッグが転がっていた。お茶を被ったそれを慌てて拾い上げると、ファスナーが全開で中の書類が床にばら撒かれる。
「…なんで閉めておかない!」
 カップを倒した非は棚に挙げて、忍は同居人に腹を立てた。
 タオルで零した水を拭く。コタツ布団に染み込んだ分は取りきれるものではないので、自然に乾くのを待つことにした。フローリングの床に散った飛沫を拭き、卓の上を拭き、最後に散らばった光流の書類を集め始めた。
 講義の資料らしいプリントに書かれている事柄は専門的で、こんなものをあいつは理解しているのかと感心した。軽く目を通しながら次々と拾う。
 衝撃は不意打ちだった。
 その時拾い上げたそれは講義の資料ではなかった。割ときちんと作られたパンフレット。
『学生寮案内』
 字面を追っても、中身は頭に入らない。
 背後でバスルームのドアが開いた。
「お前…!何、勝手に…」
 光流の抗議は掠れて消えた。
 振り向くと、濡れた髪から水を滴らせた同居人が、呆然と立ち尽くしていた。
「風邪引くぞ。頭拭けよ」
 それでも動かない光流に近寄って、肩に掛けられたタオルを頭に被せてやる。すると光流の肩が強張った。
 明らかな拒絶だった。
 ゆっくりと後ずさる。立っているのが辛かった。コタツの元いた場所に座り、卓の上に散らばっていた雑誌を手に取った。旅行雑誌の嘘くさい青々とした海が気に入らず、丸めて握りこんだ。
「お、俺は…」
 やっと、小さな声で光流が口を開いた。
「俺、四年になったらもう少しバイト増やそうと思ってて…多分今よりもここに帰って来れなくなるし。そうしたらお前の負担が増えちまうから。…今だって結構家事とかやらせちまってるしさ」
 必死に言葉を探そうとしているのが判る。痛々しいほどだった。
「だから、俺、大学の寮に入ろうかと思う」
「いつから?」
 冷静さを保とうとして声が平滑になりすぎた。しかし、自分のことに手一杯の光流は気付かない。
「…二週間後の土曜」
 何だ、それは。すぐじゃないか。
 忍は本気で噴き出してしまった。
 こんなに簡単に、全ては崩れ去る。あっけない。
 笑うしかなかった。
「忍?」
 怪訝な顔で忍を伺う光流。
「その日なら、開いている。引越し手伝ってやってもいいぞ」
 そして忍に、これ以外言えることなどなかった。
「えっ」
「手がいらないなら、好きにしろよ」
「いや…頼むよ」
 光流が笑った。いつもと程遠いそれは、笑っているというよりは不味いものを無理矢理飲み込んだような顔だった。
「蓮川たちにも声をかけるんだろうな。俺一人で手伝うのはごめんだぞ」
「ああ。もちろん。後輩は使わなきゃな」
 後輩の名前に光流はやや表情を緩めた。
 雑誌を握る手をコタツの中に突っ込む。見なくても、雑誌が歪んでいくのが判った。

To be continued !
2006.2.4


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