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【楽園】(7)

 光流の部屋を出たのは深夜になってからだった。
 辛うじて終電に飛び乗り、最寄り駅から自分一人のものになった部屋に向かって歩く。
 夜の冷気が火照った肌に痛かった。
 足がふらついた。自分はいくら飲んでも酔わないと思っていたので忍は驚いた。どれだけ飲んだのだろうと考えるが、記憶は曖昧だった。
 蓮川と瞬は到底帰れる状態ではなく、光流の部屋に泊まっていくことになった。潰れて寝転がっている後輩達に布団をかけてやりながら、光流は聞いてきた。
「お前はどうする?」
「俺は帰るよ」
「気をつけろよ」
「何にだ」
 軽く笑って、別れた。
 ようやく明りの消えた部屋につく。ドアを開けると、外気と同じ冷え切った空気が忍の体を包んだ。
 ほんの微かに、引越しの名残の埃のにおいがした。
 部屋の電気をつける。普段は気にもとめない蛍光灯の瞬く音が耳についた。
 明るくなった室内を見回して、光流の使っていた個室のドアが僅かに開いていることに気付く。
 冷気は全てそこから流れてくるような気がした。閉めようとノブに手をかける。何気なく中を覗いて忍は後悔した。
 空っぽの闇。
 すぐにドアを閉めた。そのまま自分の個室に入る。コートを脱ぎ捨て、着替えもせずベッドに潜り込んだ。
 外を歩く酔っ払いの不安定な足音が耳につく。  騒音を閉め出そうと布団の中で身をできるだけ縮める。胸苦しさが忍を責めた。
 自分が始めて手に入れた友人に依存していることは、嫌と言うほど判っていた。
 人の下に甘んじることのできない高慢さを、目的のためには手段を選ばない汚さを、思いやりを偽善と切って捨てる冷たさを、知ってなお、忍の隣に立ち続けた光流。
 遅かれ早かれ、別れの時が来ることも知っていた。どちらかの大学卒業がその時だろうと思っていた。忍はその日を想像した。おのれに言い聞かせるように、何度も。
 しかし想像は想像でしかなかった。実際は、卒業さえ待てなかったのだ。自分といることに…光流は。
 どれほどの時間が過ぎただろうか。布団の端を握りこんだ指の痛みに耐えられなくなり、ふと力を緩める。
 表から新聞配達のバイクの音が聞こえた。
 そして朝一番にさえずる鳥の声と共に外が明るくなった。
 忍は身を起こす。
 眠ることの叶わなかった頭は取りとめのない思考を続ける。
 光流がこの部屋を出て行ったことが何を意味しているのかを。
 単純に同居が解消されたということでは済まない。おそらく友人としても、もう元には戻れないだろう。
 光流は忍と離れることを望んだ。相手に避けられていると知っていて、こちらから一方的に友情を強要することなど忍にはできない。
 光流の新しい住まいはこの部屋からそう離れてはいない。電車に乗れば数十分で着いてしまう程度の距離だ。それでも今や、二人の間は果てしなく遠い。
 それならいっそ、もっと遠くに離れてしまえばよかったと思う。簡単には会おうという気も起きないほど遠く。
(…そう、たとえば、あの南の島のような)
 その時、電話が鳴った。
 心臓が跳ね上がる。滑稽なくらい驚いた。時刻は七時を過ぎたところだった。こんな時間に誰だろうと思い、結局一人しか思いつかなかった。
『もしもし、忍―?』
 思った通りの相手が上げた第一声は、底抜けに明るいものだった。
「…何だ、こんな朝っぱらから」
『お前いつもこの時間には起きてんだろーが。や、後ちょっとでバイトに行くんだけど、ちゃんと部屋に帰れたかなーと思ってさ』
 明るい口調で告げる光流に、忍を苛んだ想いが一瞬、消える。
 しかしすぐに、苦いものがこみ上げた。
 本来、光流が忍をこんな風に心配することなどありえないのだ。
 光流が冷淡だと思っているわけではない。ただ、夜道の帰宅が覚束ない忍ではないことを、誰よりも光流が知っているはずだった。共に暮らした時間は、お互いを知る程度には長かった。事実、朝帰りを繰り返していた高校時代でさえ、そんなことは一度も言われたことがなかった。
 つまりは。
「…ところで蓮川達はどうした?」
『たった今、二人ともモロ、二日酔いって顔で帰ってったよ』
 同情か。あるいは罪悪感か。何かはわからないがそれは、友情以外のものには違いない。
「しようのない奴らだな」
『できの悪い後輩を持つと苦労だぜ』
「その後輩に引越しを手伝わせといてよく言うな」
『教育だよ、教育』
 ふと、沈黙が流れる。
『…で、お前、さ、ちゃんと帰れたわけ?』
 繰り返される問いに声だけの笑みを漏らす。
 今ここで、電話を受けている時点で、忍が部屋に帰りつけたことなど判るはずだ。それ以外のことを聞きたいのだろうと気付いても、与える答えを忍は見出せなかった。
「別に、何も。帰ってきているよ。部屋に。ちゃんと」

To be continued !
2006.2.27


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