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【楽園】(9)
忍はもともと潔癖な性格をしていた。だから、掃除にも妥協がない。
台所、ユニットバス、リビング、自分の部屋、と掃除をする。それは天井のすす払いから、窓磨き、床のワックス掛けに至るまで、完璧なものだった。
僅かな汚れも見逃さずに磨き上げる。
作業は到底、1日では終わらなかった。忍の望み通り、時間を潰す役には充分に立った。
普段使用している場所が忍の満足がいくまできれいになると、最後にもういない同居人の部屋を開ける。
あの夜から一度も開けなかった部屋は、それだけで荒んだ臭いがした。
窓を開け、掃除機をかける。再び窓を閉め、部屋を出る。
使っていない部屋を隅々まで掃除する義理はない、と簡単にすませた。
掃除が終わってしまうと、忍は卒論の仕上げを始めた。そして作業に疲れると、休み前に買い込んだ本を片っ端から読んだ。
読書は面白かった。一度ページを開けば寝食を忘れて活字に溺れた。
その合間に、歪んだ雑誌を手に取った。
しかし、いくら食い入るように眺めて見ても、写真の平坦な海は美しく見えるようにはならない。
やはり、自分には大切な何かが欠けているのだろう。皆が息を呑むような絶景にも動かされない冷めた心が人に受け入れられる訳はない。だから、失いたくないものも離れていく。
仕方のないことなのだ。
机に向かい、あるいは活字を追い、そうして日々が無為に過ぎて行く。
いつの間にか年が明けていた。卒論の形が整い、読む本が尽きたところで久しぶりにテレビをつけてそれを知った。振袖と紋付袴が画面に溢れていたのだ。
一月五日だった。
(…本屋はもう開いているよな)
忍は久しぶりに外に出ることにした。
正月の日中は、風は冷たいが太陽の光は穏やかで暖かかった。
部屋にこもり極端に動かない生活をしていたためか、頭の中にモヤがかかったような、はっきりしない気分だった。
駅前の本屋に入る。しかし、興味のあるものは全て読んでしまっていた。食指の動くものが見つからない。
大学の図書館はどうだろうと思いつく。
正月明けて間もない今日、大学が開いているかも判らない。それでも通っている校舎はここからごく近く、電車で数駅のところにある。
行って、駄目だったとしても散歩だと思えばいい。忍は駅に向かった。
電車に乗ると、車内は混んでいた。吊革につかまり、流れる外の景色を眺める。
そして。
「…え?」
気がついたら大学の最寄り駅を通り過ぎていた。
途端に頭がはっきりした。思い出す限り、こんな間抜けはしたことがなかった。自分に腹が立つ。
慌てて降りるのも癪で、そのまま数駅を過ごした。
やがて電車は終点に着いた。折り返す電車にそのまま乗っていたら乗り過ごしたことが周囲に判ってしまう。それは到底我慢のできないことで、大勢の人に紛れて忍は一旦電車を降りた。
光流の寮に行くには、ここで乗り換えるのだ、と何気なく思った。
(いや、そんなことはしない。ちょっとホームを一周。それからまた乗りなおす。それだけだ。乗換えなんか、絶対しない)
目に付いた乗り越し精算機はたくさんの人で長い列ができている。それに並ぶのはいかにも億劫なことだ。
光流は忍が実家に帰っていると思っているのだ。突然訪ねていったら何事かと驚くだろう。
だというのに、忍はいつの間にか精算機に並んでいた。
(何をやっているんだ、俺は)
自分で自分を罵っても、忍の足は乗り換え先へとむかう。
電車に乗ってしまえばその駅にはすぐに着いてしまった。
自らの無意味な行動に忍は呆れつつ、辺りを見回した。
東京のど真ん中にありながら妙に鄙びたその駅は、人影もまばらだった。
いったいここで、何をしようと言うのか。
忍はホームのベンチに座り込んだ。
光流の部屋を訪ねるなどもってのほかだった。忍の取りうる手は、反対側のホームに移動して、大学方面に戻るべく電車に乗るしかない。
しかし体は思うように動かない。反対側のホームから目的の電車が走り去るのをただ見送るだけだった。
どれだけその場に居ただろうか。耳に飛び込んだ声に忍の体が震えた。
「じゃあ、またな!」
改札のほうからだった。よく響く、迷惑なほどの大声だった。
思わず立ち上がった。そしてすぐに踵を返す。ホームを奥へ、改札から見えない位置へ移動する。
そこには見慣れた元同居人がいた。
おそらく、寮の部屋へ大学の友人が遊びに来たのだろう。忍の知らない人々に囲まれて、光流は屈託なく騒いでいた。いつの間にか忍には見せなくなった、明るい笑顔を満面に浮かべて。
ホームに電車が入ってきた。
目的の方向とは逆に向かう電車に、迷うことなく乗り込んだ。改札に背を向けて座る。忍は窓から身を隠すように頭を深く垂れた。
やがてドアが閉まり、ホームの喧騒が遠くなる。
判っていたはずだ。納得したはずだ。欲しいものは手に入らない。望みは叶わない。
当たり前のことなのだ。こんなに心を乱される必要はない。
見たことも聞いたこともない場所を走っていることに気付いたのは、かなりの時間が経ってからの事だった。
自嘲する気力さえ湧かなかった。
To be continued !
2006.3.27
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